アメリカでもフィギュアスケートは、安定した人気があり、世界大会でも好成績を残しています。
この記事では、
アメリカ人が選ぶ女子歴代選手10人
をお送りします。
期待の「あの人」は入っているでしょうか?
10位:ジャネット・リン
ジャネット・リンは、アメリカのフィギュアスケート選手でした。
生年月日:1953年04月06日(69歳)
身長:158cm
引退:1973年(20歳)
オリンピック
銅 1972 札幌 女子シングル
世界フィギュアスケート選手権
銀 1973 ブラチスラヴァ 女子シングル
銅 1972 カルガリー 女子シングル
まずはアメリカのジャネット・リンが10位にランクインです!
リンはシカゴに生まれ、歩き始めるとすぐにスケートを始め、4歳でショーに初参加しました。
苗字のノーウィッキ(Nowicki)が頻繁にスペルミス、発音違いされるため、ミドルネームのリンを使うようにしたそうです。
11歳で米国フィギュアスケート協会の厳しいテストに合格し、最年少のスケーターになり、2年後には米国ジュニアレディース選手権で優勝しました。
1969年からの全米フィギュアスケート選手権では、5年連続で優勝という快挙も成し遂げています。
1972年の札幌、冬季オリンピック時は18歳でした。
フリーで転倒し、尻もちをつくも、その愛くるしい笑顔から日本でも多くのファンに愛されました。
引退前は、モチベーションの低下と体重増加に悩んでいたそうです。
なんだか、普通の若い女性という感じで、可愛いですね。
引退後は、スケートリンクの冷たい湿った空気で悪化したアレルギーの喘息をコントロールしながら、プロとして活躍。
ジョン・カリーがTV用に作った「雪の女王」のアイスショーで共演もしています。
※ジョン・カリー:こちらの10人に選ばれています!↓
9位:伊藤みどり
伊藤みどりは、日本のフィギュアスケート選手でした。
生年月日:1969年08月13日(53歳)
身長:145cm
引退:1992年(23歳)1996年(27歳)
オリンピック
銀 1992 アルベールビル 女子シングル
世界フィギュアスケート選手権
金 1989 パリ 女子シングル
銀 1990 ハリファックス 女子シングル
世界ジュニアフィギュアスケート選手権
銅 1984 札幌 女子シングル
日本の選手、伊藤みどりが9位にランクインです!
競技で3回転-3回転ジャンプと3回転アクセルに成功した初めての女性です。
また1988年のカルガリーオリンピックでは、7回の3回転ジャンプを行なった最初の女性でもあります。
伊藤さんは3歳くらいからスケートを始め、1981年の世界ジュニアフィギュアスケート選手権で国際大会にデビューしました。
結果は8位でしたが、小さな体に似合わぬ強力なジャンプ力で、「ジャンピング・フリー(※flea、ノミの意味)」と呼ばれました。
う、うーん、ノミって…。
もっと可愛いのが良かったですね^^;
特筆すべきは1989年の世界選手権で、フリー演技で9人中5人が6.0の技術点(満点)を付けたという快挙です。
伊藤さんはギネスブックに「最も高得点を取った」として載っているフィギュアスケーターです。
伊藤さんのジャンプは世界のファンを魅了し続けました。
しかし、そのジャンプのために慢性的な膝の痛みにも悩まされました。
引退後はアイスショーに出たり、フィギュアスケート解説員として活躍しました。
今は福岡県北九州市でスケートの指導をされているそうです。
8位:クリスティー・ヤマグチ
クリスティー・ヤマグチは、アメリカのフィギュアスケート選手で、現在はプロスケーターをしています。
生年月日:1971年07月12日(51歳)
身長:155cm
引退:1992年(21歳)
オリンピック
金 1992 アルベールビル 女子シングル
世界フィギュアスケート選手権
金 1991 ミュンヘン 女子シングル
金 1992 オークランド 女子シングル
世界ジュニアフィギュアスケート選手権
金 1988 ブリスベン ペア
金 1988 ブリスベン 女子シングル
銅 1987 キッチナー ペア
日系のフィギュアスケーターが8位にランクインです!
カリフォルニア州ヘイワードで生まれたヤマグチは、日系三世です。
祖父母は第二次世界大戦中、強制収容所に入れられていたそうです。
先天性内反足の治療の一環で、スケートとバレエのレッスンを子供の頃から受け始めました。
これがなかったら、今の彼女はなかったかもしれないのですね。
女子シングルと共に、ルディ・ガリンドとペアでも滑りました。
しかし1990年にはシングルに専念することに決めました。
ヤマグチが金メダルを獲ったアルベールビルオリンピックのアメリカ代表で一緒だったのは、
- ナンシー・ケリガン
- トーニャ・ハーディング
です。
どちらも忘れられない名前ですね…。
またこの時の銀メダルが、伊藤みどりさんでした。
とても濃い年という感じです^^;
プロ転向後は、スターズ・オン・アイスで長くツアーをしました。
また2008年の『ダンシング・ウィズ・ザ・スターズ』(ダンスリアリティ番組)では優勝もしています。
7位:タラ・リピンスキー
タラ・リピンスキーは、アメリカのフィギュアスケート選手で、現在は女優、スポーツコメンテーターをしています。
生年月日:1982年06月10日(40歳)
身長:146cm
引退:1998年(16歳)
オリンピック
金 1998 長野 女子シングル
世界フィギュアスケート選手権
金 1997 ローザンヌ 女子シングル
ISUグランプリファイナル
金 1996-97 ハミルトン 女子シングル
金 1997-98 ミュンヘン 女子シングル
16歳という若さで引退した長野オリンピック金メダリストが7位にランクインしました!
フィラデルフィアで生まれたリプリンスキーは、6歳からアイススケートを始めました。
1994年、全米オリンピックフェスティバルのジュニアクラスで好成績。
翌年の世界ジュニア選手権では4位、全米選手権では2位となりました。
リプリンスキーは、金メダリストに最も近い、一番若い女性フィギュアスケーターでした。
多くのメディアの注目を集め、たくさんの「タラ・マニア」が生まれました。
小柄な体型を活かしたリプリンスキーの武器は、難易度の高いコンビネーションジャンプでした。
リプリンスキーは、最年少の女子フィギュアスケートチャンピオンで、金メダリストになりました。
(しかし2014年、ユリア・リプニツカヤは誕生日が5日早いため、記録を更新して6日早く最年少金メダリストとなりました。
ただしリプニツカヤは団体戦、リプリンスキーは個人戦です。)
1998年長野オリンピックのフリースケートです。
2:57のトリプルループ-トリプルループのコンビネーションが見事です!
リプリンスキーは若くして引退を決めますが、家族と時間を過ごしたり、学校に行ったりする時間を大切にしたかったそうです。
アイドルが、普通の女の子に戻りたいから引退します、というのに似ている感じでしょうか。
1998年のプロ転向後はアイス・ショーのツアーに参加していましたが、しばしば怪我に悩まされました。
そのため、2002年でプロスケーターは休業し、演技やコメンテーターの仕事をしています。
6位:ミシェル・クワン
ミシェル・クワンは、アメリカのフィギュアスケート選手でした。
生年月日:1980年07月07日(42歳)
身長:158cm
引退:2006年(26歳)
オリンピック
銀 1998 長野 女子シングル
銅 2002 ソルトレイクシティ 女子シングル
世界フィギュアスケート選手権
金 1996 エドモントン 女子シングル
金 1998 ミネアポリス 女子シングル
金 2000 ニース 女子シングル
金 2001 バンクーバー 女子シングル
金 2003 ワシントンD.C. 女子シングル
銀 1999 ヘルシンキ 女子シングル
銀 1997 ローザンヌ 女子シングル
銀 2002 長野 女子シングル
銅 2004 ドルトムント 女子シングル
ISUグランプリファイナル
金 1995-96 パリ 女子シングル
銀 1996-97 ハミルトン 女子シングル
銀 1999-2000 リヨン 女子シングル
銀 2000-01 東京 女子シングル
銀 2001-02 キッチナー 女子シングル
世界ジュニアフィギュアスケート選手権
金 1994 コロラドスプリングス 女子シングル
10年以上に渡り最も人気のある女性選手の地位を維持した、ミシェル・クワンが6位にランクインです!
香港出身のクワン家の3番目の子供、ミシェル・クワンはカリフォルニア州トーランスに生まれました。
8歳の頃から厳しい練習を始め、朝5時にはリンクに行き、学校前に練習、1日3〜4時間は滑っていました。
労働者階級だったクワン家は、クワンが10歳の時に練習費用が捻出できなくなりました。
しかしロサンゼルスフィギュアスケートクラブのメンバー達が資金援助を申し出てくれて、無事に練習を続けることができました。
クワンは世界選手権で5回優勝しました。
9つのワールドメダルは、アメリカのスケーターの過去最高記録です。
全米フィギュアスケート選手権では9回優勝、連続8回優勝と連続12回メダル入賞の記録を保持しています。
1988年の長野オリンピックは同じアメリカのタラ・リプリンスキーとの金メダル争いとなりました。
ショートプログラムでは1位でしたが、フリーで逆転されてしまい、銀メダルという結果でした。
2002年のソルトレイクシティオリンピックでも、ショートプログラムでは1位でした。
しかし結果は銅メダル、引退が噂されるも、続けることを決めました。
2006年のトリノオリンピックを目指していましたが、怪我のため断念。
学業を優先したいということで、引退を決めました。
2006年、クワンはライス国務長官に任命され、外交大使としての仕事も始めました。
中国、ロシア、アルゼンチン、ウクライナ、韓国、シンガポールを外交使節として訪問しています。
スポーツだけではない幅広い活躍が、人気の秘密かもしれませんね。
ベスト5に入ります!
5位:ペギー・フレミング
ペギー・フレミングは、アメリカのフィギュアスケート選手で、現在はコメンテーターをしています。
生年月日:1948年07月27日(74歳)
身長:163cm
引退:1968年(20歳)
オリンピック
金 1968 グルノーブル 女子シングル
世界フィギュアスケート選手権
金 1966 ダボス 女子シングル
金 1967 ウィーン 女子シングル
金 1968 ジュネーブ 女子シングル
銅 1965 コロラドスプリングス 女子シングル
全米フィギュアスケート選手権5連続優勝のペギー・フレミングが5位にランクインです!
フレンミングはカリフォルニア州サンノゼに生まれました。
クリーブランドに移り、本格的にスケートを始めたのは9歳の時でした。
フレミングが12歳の時、サベナ航空548便墜落事故により、コーチを失いました。
世界フィギュアスケート選手権に出場予定だったアメリカ代表チームの選手やその家族、審判員何度全員が死亡した痛ましい事故でした。
1968年のグルノーブルオリンピックでの金メダル獲得は、唯一の金メダルでした。
また前例のない悲劇の飛行機事故の後の金メダルでもあったので、アメリカ復活の象徴でもありました。
1968年グレノーブルオリンピックのフリースケートです。
ダブルアクセルをシングルに変えるなど、必ずしも完璧なパフォーマンスという訳ではなかったようです。
引退後はプロに転向し、スケートショーに出演しました。
1981年からはスケートのコメンテーターをしています。
10代からの恋人、グレッグ・ジェンキンスと結婚し、カリフォルニアにワイナリーを所有し、運営していました。
ワインの収益は、乳癌の研究を支援する慈善団体に寄付していましたが、ワイナリーは2011年に閉鎖されました。
夫婦には2人の息子と3人の孫がいます。
4位:オクサナ・バイウル
オクサナ・バイウルは、ウクライナのフィギュアスケート選手で、現在はプロスケーターをしています。
生年月日:1977年11月16日(44歳)
身長:160cm
引退:1994年(17歳)
オリンピック
金 1994 リレハンメル 女子シングル
世界フィギュアスケート選手権
金 1993 プラハ 女子シングル
後にアメリカに移住した、オクサナ・バイウルが4位にランクインです!
バイウルは、ソビエトのミサイル製造で有名な工業都市、ドニプロペトロウシクで生まれました。
2歳の時に両親が離婚し、母と祖父母に育てられましたが、10歳を過ぎて立て続けに祖父母が亡くなり、13歳で母親も卵巣癌で亡くなりました。
しかし才能を見出されたバイウルは、オデッサ(ウクライナ南部)の寮で生活し、コーチに指導を受けました。
1994年リレハンメルオリンピックでは、ショート・プログラムでは2位でした。
しかもフリースケーティング前の練習で他の選手と衝突し、3針縫う怪我をしてしまい、痛み止めを打ってのフリー出場。
そんな逆境の中、フリー1位を獲得し、金メダルとなりました。
(この時の銀メダルは、ナンシー・ケリガンです。)
この後、プロに転向し、アメリカに移住しました。
1997年1月、コネチカット州でバイウルは、飲酒運転で車を木にぶつけて逮捕されています。
保護観察の条件を満たし、酒類教育プログラムを完了し、しかし、彼女の飲酒は続けられ…。
2ヵ月半のアルコールリハビリプログラムに入ることになりました。
2004年のインタビューで、バイウルはこう語っています。
6年間シラフでいたこと、これはオリンピックの金メダルよりも重要なこと。
そしてプロとしてアイスショーで活躍するようになりました。
現在はマネージャーの男性と結婚し、ラスベガスに住んでいます。
いよいよベスト3です!
どんな選手が入っているのでしょうか?
3位:キャロル・ヘイス・ジェンキンス
キャロル・ヘイス・ジェンキンスは、アメリカのフィギュアスケート選手で、現在はフィギュアスケートコーチをしています。
生年月日:1940年01月20日(82歳)
引退:1960年(20歳)
オリンピック
金 1960 スコーバレー 女子シングル
銀 1956 コルチナ・ダンペッツオ 女子シングル
世界フィギュアスケート選手権
金 1956 ガルミッシュパルテンキルヒェン 女子シングル
金 1957 コロラドスプリングス 女子シングル
金 1958 パリ 女子シングル
金 1959 コロラドスプリングス 女子シングル
金 1960 バンクーバー 女子シングル
銀 1955 ウィーン 女子シングル
安藤美姫選手のコーチをしていたこともある、キャロル・ヘイス・ジェンキンスが3位にランクインです!
ヘイスはニューヨークで生まれ、6歳の時からスケートを始めました。
妹のナンシーと兄のブルースもエリートフィギュアスケート選手でした。
1953年、ダブルアクセルを女子選手で初めて成功させました。
同じ方向(通常は反時計回り)にするのが一般的なのに、ヘイスのジャンプは時計回りと反時計回りを交互に連続して行うというものでした。
1956年から世界選手権で5連勝しました。
5年連続で優勝した女性は、3人しかいません。
1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピックで銀メダルを獲得し、プロ転向の要請がありましたが、断りました。
癌で伏していた母親が、金メダルを望んでいたためです。
母の死には間に合いませんでしたが、1960年のスコーバレーオリンピックで見事、金メダルを獲得し、引退しました。
プロ転向後はアイスショーに出演、しばらくスケートから離れていましたが、フィギュアスケートコーチとして復帰しました。
教え子にティモシー・ゲーブル、トニア・クワイトコウスキー、安藤美姫選手などがいます。
2位:カタリナ・ヴィット
カタリナ・ヴィットは、旧東ドイツ出身のフィギュアスケート選手でした。
生年月日:1965年12月03日(56歳)
身長:165cm
引退:1988年(23歳)1994年(29歳)
オリンピック
金 1984 サラエボ 女子シングル
金 1988 カルガリー 女子シングル
世界フィギュアスケート選手権
金 1984 オタワ 女子シングル
金 1985 東京 女子シングル
金 1987 シンシナティ 女子シングル
金 1988 ブダペスト 女子シングル
銀 1982 コペンハーゲン 女子シングル
銀 1986 ジュネーブ 女子シングル
映画に出演したり、本を出版したりと多才なカタリナ・ヴィットが2位にランクインしました!
ヴィットが生まれたのは、西ベルリンのはずれにあるシュターケンという町でした。
母親は病院で働き、父親は農夫でした。
ヴィットは、運動能力の高い子供達のための特別訓練校に通っていました。
12歳の頃には、ユッタ・ミュラーの指導の下、週6日、1日7時間訓練を受けました。
すごいですね、国からのバックアップもあったのでしょうか。
1984年、サラエボオリンピックで金メダルを獲得しました。
ヨーロッパフィギュアスケート選手権では1983年から6年連続で優勝し、1988年のカルガリーオリンピックでも金メダルを獲得しました。
カルガリーでのヴィットの勝利を讃えるため、北朝鮮では氷上のヴィットのミニチュアシートを発行したそうです。
ヴィットは社会主義の国にとって、英雄のような感じだったのでしょうね。
その後、東ドイツのアスリートとしては珍しく、プロになりました。
ブライアン・ボイタノとのアメリカツアーは大成功、マディソン・スクエア・ガーデンでのショーのチケットは完売でした。
ベルリンの壁崩壊後、1990年にドイツで撮影されたダンス映画『氷上のカルメン』では主演もしました。
この映画はエミー賞を受賞しました。
1994年のリレハンメルオリンピック(プロ出場が解禁)に出場しましたが、7位という結果でした。
やはりメダル獲得は簡単ではありませんでしたね…。
※ブライアン・ボイタノ:こちらの10人に選ばれています!↓
1位:ソニア・ヘニー
ソニア・ヘニーは、ノルウェーのフィギュアスケート選手で、映画スターでした。
生年月日:1912年04月08日
身長:155cm
引退:1936年(24歳)
没年月日:1969年10月12日(57歳)
オリンピック
金 1928 サンモリッツ 女子シングル
金 1932 レークプラシッド 女子シングル
金 1936 ガルミッシュパルテンキルヘン 女子シングル
世界フィギュアスケート選手権
金 1927 オスロ 女子シングル
金 1928 ロンドン 女子シングル
金 1929 ブダペスト 女子シングル
金 1930 ニューヨーク 女子シングル
金 1931 ベルリン 女子シングル
金 1932 モントリオール 女子シングル
金 1933 ストックホルム 女子シングル
金 1934 オスロ 女子シングル
金 1935 ウィーン 女子シングル
金 1936 パリ 女子シングル
銀 1926 ストックホルム 女子シングル
1位に選ばれたのは、パリからオスロへの機上で白血病のために亡くなったソニア・ヘニーでした!
アメリカの選手でないとは意外?!一体、どういう方なのでしょう?
ヘニーはノルウェーのオスロで生まれました。
裕福な毛皮商人の家で、女の子はソニア一人だったので、かなり可愛がられて育ったようです。
ヘニー家の子供達は、小さい頃から様々なスポーツを楽しむことが勧められました。
スキー、スケート、水泳、馬術と才能を発揮しましたが、フィギュアスケーターとしての訓練を始めるため、11歳で学校を辞めました。
1927年、世界選手権で金メダルを獲得した時は、まだ14歳でした。
そしてそれから1936年まで10連続で優勝し続けるという快挙を成し遂げました。
またこの10年間の間には、1928年のサンモリッツオリンピックで金メダルを獲得!
1932年、1936年とこれまた3連続で金メダル…もう向かうところ敵なしというか、これ以上望むものなしですね。
次の動画は、1928年のオリンピックの直後に撮られたもので、ヘニーは15歳でした。
あどけない笑顔で、技をデモンストレーションしてくれています。
ヘニーは1936年の世界選手権の後、プロに転向すると共に、映画スターになるためカリフォルニアに移ります。
強い訛りが野望の妨げになるかもしれないとは、思ってもいませんでした。
しかし父親がロサンゼルスでアイスショーを成功させることで足掛かりを作りました。
ハリウッドのスタジオチーフ、ダリル・F・ザナックと20世紀フォックスで娘を高額で契約させることに成功したのです。
最初の映画『銀盤の女王(One In a Million)』は大成功。
次の作品は契約条件をもっと上げていくという…お父様、かなりのやり手だったようです。
ヘニーは1948年までにアメリカで12作の映画に出ていますが、内容はというと、ほとんどがスケートのミュージカルコメディでした。
この間にアメリカ人と結婚し、市民権も取得しています。
このことから、アメリカ人にとっては、身近な存在だったのかもしれませんね。
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まとめ
フィギュアスケート・アメリカが選ぶ女子歴代選手10人とは?、いかがでしたでしょうか。
- 10位:ジャネット・リン
- 9位:伊藤みどり
- 8位:クリスティー・ヤマグチ
- 7位:タラ・リピンスキー
- 6位:ミシェル・クワン
- 5位:ペギー・フレミング
- 4位:オクサナ・バイウル
- 3位:キャロル・ヘイス・ジェンキンス
- 2位:カタリナ・ヴィット
- 1位:ソニア・ヘニー
という結果でした。
他国の選手が1、2、4位…でもアメリカに移住したり、活躍したりしていたので、そういう理由なのかな?とちょっと思える内容でした。
日本人が1人だけですが入っていて嬉しかったです。
全体的に、回答者の年齢層はちょっと高めかな?という感じでしょうか。
今だったら、浅田真央選手もきっとランクイン!と期待します。
年齢別のランキングも見てみたいですね^^
皆さまの予想とは、どうでしたでしょうか?
文字多めでしたが、楽しんでいただけたら、嬉しいです。