真珠湾攻撃の理由は?アメリカで教えられている内容を分かりやすく!

1941年12月7日、日本の飛行機と潜水艦がハワイの真珠湾を攻撃、アメリカを驚かせました。

カリフォルニアより面積が小さく、アメリカの半分の人口の日本が、なぜアメリカを攻撃をしたのでしょうか?

この記事では、アメリカの子供達が習う社会のテキストから、

なぜ日本は真珠湾を攻撃したのか?

を分かりやすく、時系列にそって説明します!

目次

歴史的背景:日本は軍国主義へ

FDR Presidential Library & Museum, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons
フランクリン・D・ルーズベルト大統領

フランクリン・D・ルーズベルトは、1933年3月4日から1945年4月12日まで就任した、第32代アメリカ大統領です。
ルーズベルトはニューディール政策を行なったことで有名ですが、就任中に日本によるハワイの真珠湾攻撃があったことでも有名です。

1850年代まで、日本はほとんどの国との接触を禁じた孤立主義政策を取っていました。

アメリカは、ペリーを派遣し、軍事力で脅迫する砲艦外交で、日本に海外貿易をするよう圧力をかけました。
そして1854年に神奈川条約(日米和親条約)を締結させました。

いわゆる「鎖国」と「開国」ですね。

第一次世界大戦後、アメリカと日本の関係は、アメリカでの日本人移民への酷い扱いという高い緊張状態にありました。

1924年の移民法では、日本人がアメリカに移住することを禁じていました。
多くの日本人は新しい法律に深い怒りを感じ、これを非常に挑発的ととらえたのです。

Dorothea Lange, Public domain, via Wikimedia Commons
マンザナー強制収容所

日系人の強制収容
日系アメリカ人と日本人移民、約120,000人が強制的に収容されました。
上のマンザナー強制収容所はカリフォルニア州にあり、最大で1万人がいました。

日本と西洋の緊張の歴史は続きました。

日本は、西洋の文化やヨーロッパ人・アメリカ人は、日本人の文化・伝統・価値に有害だと信じていました。

そこで、アジアの文化や伝統を尊重し、西洋の影響を拒否する立場をとりました。
「ABCD 包囲陣(Powers)」(アメリカ – イギリス – 中国 – オランダ)は、日本帝国への脅威と認識しました。

しかしその一方で、日本は資源が不足していたため、鉄、石油、石炭など原材料の大部分を輸入しなければなりませんでした。
日本経済は特に絹の輸出に大きく依存していました。

外国からの輸入に頼りたくなかった日本は、

天然資源の豊富な国々を植民地にし、帝国を作ろう

と思い立ちました。

MAKI

ええーっ?!と思いましたが、ヨーロッパでは植民地が当たり前の時代でしたから、こう考えるのも当然かもしれないですね

1929年に大恐慌が起こり、絹の価格が劇的に下落しました。
日本の経済状態は悪化しました。

日本の軍当局者は、腐敗した政治家による経済的問題を非難し、

必要な天然資源を手に入れる唯一の方法は、他国の領土を奪い取ることだ

という考えを更に強くしました。

1931年、日本の軍による支配は民政から始まり、日本軍国主義の始まりである軍事政権を確立し始めました。

中国侵略から、パナイ号沈没を経て、報復

日本軍国主義は、国家主義と帝国主義の思想を、ファシズムという形で結びつけました。
裕仁天皇(昭和天皇)は、国家の象徴として残っていました。

日本軍は政府から独立して行動し、1931年9月、東條将軍が率いて、豊富な資源を持つ中国北部の満州を侵略しました。
アメリカとイギリスは、日本の行動に対し、中国を支持しました。

日本の軍隊は、アジアでの権力を高め、さらなる資源を得るために、満州の鉄と石炭、インドシナのゴム、そして中国の膨大な天然資源に目を向けました。

1937年7月、蒋介石率いる中国と日本との間の第二次日中戦争が始まりました。
日本は上海で中国軍を倒し、南京を奪いました。

1937年12月12日、南京郊外の揚子江で、日本海軍機はアメリカの警備船パナイ号を沈没させました
これはアメリカでの増え続ける反日感情をさらに強めるものとなりました。

日本政府はパナイ号の沈没で戦争になることを望まないとして謝罪し、アメリカは受け入れました。
しかし反日感情は増加しました。

MAKI

まあ、そうなりますよねー
でもこの時は、戦争は望んでいなかったんですね

日本の中国侵略、パナイ号沈没と、ドイツによるオーストリア併合に対応して、アメリカは1938年5月17日、第二次ヴィンソン案と呼ばれる海軍法を通過させました。

この法案は、海軍が20%増強することを義務付けていました。
法律の目的は、1944年までにアメリカ海軍艦隊の規模を3倍にすることでした。

1939年7月26日、アメリカは突然行動を起こしました。
コーデル・ハル国務長官が、中国植民地の報復として、1911年の日米通商航海条約の廃棄を正式に通知したのです。

これにより、日本は真珠湾攻撃への道へと歩み始めた、と言われています。
ちなみにこの国務長官は、強硬派として有名だったそうです。

Underwood & Underwood, Public domain, via Wikimedia Commons
コーデル・ハル国務長官

1939年9月3日、イギリス、フランスがドイツに宣戦し、第二次世界大戦が勃発しました。
9月5日、アメリカは中立を宣言しました。

太平洋地域の変化、日本との戦争は避けたかったが…

戦争が始まり、ドイツはアメリカからイギリスに物資を輸送する時、イギリスの商船を攻撃し始めました。
イギリス軍は東南アジアから大西洋に軍艦を送り、太平洋地域の攻撃は脆くなりました。

1940年代初め、日本は、ハワイとフィリピンの間、中央太平洋に位置するマーシャル諸島の要塞化を始めました。
これは東アジアを植民地に持つアメリカ、イギリス、オランダに重大な脅威となりました。

1940年6月、ルーズベルト大統領は、日本の侵略を抑制するため、米国太平洋艦隊に、太平洋岸の主要基地をカリフォルニアからハワイ諸島の真珠湾に移転するよう命令しました。

この命令は、大きなリスクとはなりませんでした。
何故なら、米国太平洋艦隊は日本の強力な海軍の飛行距離内だったからです。

日本はかなりの軍事力を持っていました。
1940年、日本は太平洋に航空母艦を10艘、一方アメリカでは3艘。
日本は駆逐艦と巡洋艦が145艘、一方アメリカでは74艘、という感じでした。

MAKI

日本、すごかったんですね!!

ルーズベルト大統領は、東南アジアへ日本が侵略するのを防ぐため、日本に対する鉄鋼の禁輸措置を導入し、戦争物資の販売を制限する経済政策を実施し始めました。

1940年7月、議会は輸出管理法を制定し、日本の輸出を制限しました。
この禁輸措置により、航空機、工作機械と部品、航空機用ガソリンなどの品目の出荷が停止されました。

日本は禁輸措置に憤慨しました。

1940年9月、ドイツ、イタリア、日本で枢軸軍を結成し、三国協定が調印されました。
三国は、まだ戦争に参加していない新たな国によって攻撃された場合、お互いを助けることを同意しました。
意図された国は、アメリカでした。

Bundesarchiv, Bild 183-L09218 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/de/deed.en>, via Wikimedia Commons
1940年、ドイツ、日本、イタリアの旗が見られるベルリンの日本大使館

ルーズベルト大統領は、ドイツと第二次世界大戦で戦うことは避けられないと考えていましたが、日本との戦争は避けたいと考えていました。

1941年4月、ルーズベルト大統領は、貸し出し援助(レンドリース法)を中国に広げました。
中国が日本の注意をそらし、他の場所からの攻撃を防ぐことができるようにするためです。

しかしこの戦略は失敗し、1941年7月、日本軍はインドシナ南部を侵略、ベトナムを占領しました。

ベトナムの日本の占領には、カムラン海軍基地と8つの飛行場が含まれていました。
そこはフィリピンからわずか800マイルで、アメリカの軍隊がいました。

追い詰められた日本、真珠湾攻撃へ

1941年7月、ダグラス・マッカーサーは、ルーズベルト大統領の要請で現役に復帰し、極東陸軍司令官に就任しました。
そしてアメリカ防衛隊を構築するため、フィリピンに派遣されました。

アメリカは、日本によるインドシナ南部の占領に反応し、1911年の日米通商航海条約の撤回を上回る措置をしてきました。

  1. 1941年7月26日付けで、アメリカにある全ての日本の資産を凍結
  2. 日本との貿易港を閉鎖
  3. 石油とガスの禁輸

を行いました。

日本の資産や日本の銀行口座を凍結させることで、日本の市民や企業は、米国の所有財産を売却したり、米国の銀行で保有していた資金を引き出せなくなりました。

また、石油は日本にとって最も重要な輸入品であり、当時の日本は、石油の80%以上がアメリカ産でした。
日本への石油輸出禁止措置は、1941年8月1日に施行されました。

MAKI

遂に本気を出してきましたね
でも石油の80%がアメリカからだったとは意外でした
喧嘩しちゃダメじゃないですか^^;;

日米関係を解決するため、ワシントンの日本大使が数多くの会合を開きました。
しかしルーズベルト大統領の主張は、日本がインドシナから撤退し、中国と和平すれば、資産は解放され、石油禁輸措置も解除される、でした。

解決策を見つけることができず、日本は東アジアと太平洋を支配する計画に緊急性を感じていました。
新しいアメリカの軍艦と戦闘機が登場するまで、あと数年は、日本の優位は続くだろうとも思っていました。

1941年11月3日、日本軍は真珠湾攻撃の完全計画を昭和天皇に提示しました。
昭和天皇は、5日の帝国会議で、アメリカ、イギリス、オランダとの戦争を承認しました。

戦争は、外交的合意が成されなかった場合、12月初めに始まる予定でした。
すべての交渉は決裂しました。

現在の真珠湾

強硬な軍国主義者である東條英機将軍は、アメリカと戦争をしたがっていました。
ハワイの真珠湾に拠点を置く米国太平洋艦隊は、日本の積極的な領土拡大の野望に、唯一重大な脅威をもたらすモノでした。

日本政府は、1941年12月7日、日曜日の朝、パールハーバー基地の米国太平洋艦隊に対し、奇襲攻撃を開始することを決定しました。

真珠湾への攻撃は、フィリピン、マレーシア、香港、タイへの攻撃に合わせて行われました。
フィリピンのマッカーサー将軍の航空機のほとんどは、同じ日に破壊されました。

1941年12月8日、イギリスとアメリカは、日本に宣戦布告しました。

まとめ

真珠湾攻撃の理由は?アメリカで教えられている内容を分かりやすく!、いかがでしたでしょうか。

  • 軍事政権を確立し始めた日本は、天然資源豊富な国を植民地にして帝国を作ろうとしていた
  • 満州、南京と中国を侵略した報復措置で、日米通商航海条約を廃棄された
  • 第二次世界大戦が始まり、太平洋地域が手薄になった
  • 日本はマーシャル諸島を要塞化、アメリカは東南アジア侵略防止のため禁輸措置
  • 日本はインドシナ南部を占領、アメリカはその報復として日本の資産を凍結、貿易港を閉鎖、石油とガスの禁輸
  • その解決策が見つからず、日本軍は真珠湾攻撃計画を決定

でした。

日本は悪い国だ!ともっと書かれているかな?と思ったら、そんなに酷くはなかったかな?と思いました。
でもアメリカの子供達はどう思うかな?

植民地はヨーロッパでは当たり前の時代でしたが、自国を攻撃されたら怒りますよね。

アメリカも日本も、最初は戦争したいとは思っていなかったんだなと思いました。
でも勝てるとは思っていた…でなければ始めませんか。

追い詰めすぎは良くない…と思いつつ、今の北朝鮮を考えました。
こんな感じだったのでしょうか?

まあ、三国協定を調印する国はなさそうですけどね。

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