トランプ大統領がFBI長官を更迭した時、「これはウォーターゲート事件の再来か?」と言われました。
アメリカで初めて、大統領が任期中に辞任することになったという政治スキャンダル、ウォーターゲート事件。
それとFBI長官の更迭がどう関係するの??
いったい、何が起こり、ニクソン大統領は辞任へと追い込まれたのか?
こちらの記事では、
- ニクソン大統領のワシントン・プラマーとは?
- ウォーターゲート事件とは
- ニクソン大統領の声明と大統領選挙、側近の相次ぐ逮捕
- ニクソンテープと土曜日の夜の虐殺
- 嘘つきまくりの会見と決定的証拠で辞任
- 「ディープ・スロート」情報源、密告者の正体は?
について、わかりやすく順を追ってお話します。
ニクソン大統領とワシントン・プラマー
リチャード・ニクソンは、1969年1月20日から1974年8月9日まで就任した、第37代アメリカ大統領です。
ニクソン大統領は、自尊心が低くとても内向的な人でした。
大統領になるような人で珍しいですね。
「過激派」が政権を崩壊させようとしていると信じ込み、自分や自分の政権を批判する人にはとても秘密主義になり、ひどく腹を立てていたそうです。
1971年6月にペンタゴン・ペーパーズ*の漏洩が起こり、アメリカ政府は懐疑的な時代へと突入しました。
ニクソン大統領は、情報が漏れるという可能性に、被害妄想のように神経質になりました。
そして「ワシントン・プラマー」と呼ばれる信頼できる側近グループをいつも側に置くようになりました。
ワシントン・プラマーのメンバー:
- ジョン・エリクマン(大統領補佐官)
- ジョン・ディーン(大統領法律顧問)
- ボブ・ハロデマン(ホワイトハウス参謀)
- トム・ヒューストン(ホワイトハウス補佐官)
- G・ゴードン・リディ(FBI代理人)
- ハワード・ハント(元CIA長官)
プラマーは「配管工」という意味です。
水漏れを止める=情報漏れを止める、という意味ですね
1970年の夏、FBI、CIA、その他の機関で、国内機密情報の収集を大幅に拡大する「ヒューストン・プラン」という文書が作成されました。
ヒューストン・プランの多くは、敵、過激派、共産主義者に関する情報を収集するために、個人の郵便、電話の盗聴、秘密裏の侵入を許すなど、明らかに違法なものでした。
ニクソン大統領は、初めはヒューストン・プランを承認しました。
しかしFBI長官、ジョン・エドガー・フーヴァーの反対にあい、すぐに承認を取り消しました。
しかしフーヴァーは1972年5月に死去しています。
次の長官は、ニクソン大統領指名により、L・パトリック・グレイが任命されました。(ウォーターゲート事件後に辞任。)
「ヒューストン・プラン」は廃止されましたが、「ワシントン・プラマー」の秘密チームは、大統領再選委員会(CREEP)のために働き、国内情報収集に重点を置いた仕事をしていました。
何か起きそうな雰囲気になってきましたね。
ウォーターゲート事件の始まり
ウォーターゲート事件が始まったのは、「ワシントン・プラマー」のメンバーでもあるハワード・ハント(CIAの工作員)がウォーターゲート・オフィスビルに侵入と盗聴を手配したことでした。
ウォーターゲート・オフィスビルは、ワシントンD.C.の、民主党本部があるビルです。
ニクソンは共和党なので、民主党はライバルです。
目的は、1972年の大統領選挙でニクソンが勝利するため、電話に盗聴器を設置して有益な情報を収集することでした。
1972年6月17日の早い時間に、5人の男がウォーターゲート・オフィスビルに侵入しました。
バーナード・バーカーが文書を撮影、バージリオ・ゴンザレスは錠をこじ開け、ジェームズ・W・マッコード・ジュニアは盗聴を仕掛けました。
ユージニオ・マルチネスとフランク・スタージスは見張り番を務めました。
警備員のフランク・ウィルズがドアに奇妙なテープを発見し、侵入の証拠として警察に通報しました。
5人は逮捕される直前、ウォーターゲートホテルの214号室で双方向無線連絡で操作管理をしていたG・ゴードン・リディとハントに警告を送っています。
それを受け、リディとハントはすぐにホテルの部屋を出ました。
ハントは弁護士を雇い、リディは侵入に関与しているという証拠を排除するために事務所に戻り、作業を始めました。
警察は、盗聴器、2台のカメラ、フィルム、2つのホテルルームキーを発見しました。
そのうちの1つはG・ゴードン・リディとハワード・ハントが滞在していた部屋のものでした。
新聞によると、侵入者の一人であるジェームズ・W・マッコード・ジュニアは、元CIAの工作員であっただけでなく、大統領の再選委員会(CRP)のメンバーでもあったことがわかりました。
ワシントン・ポストのボブ・ウッドワード記者とカール・バーンスタイン記者、そして「ディープ・スロート」と呼ばれるミステリアスな情報提供者との会見は、ウォーターゲート侵入からわずか3日後の6月20日に始まりました。
ホワイトハウスでジョン・ミッチェルが管理していた秘密の共和党基金から、民主党をスパイするために支払いがあった記録の報告がすぐに浮上しました。
ウォーターゲートの隠蔽は、ホワイトハウスとの繋がりが増し、人々の関心が高まると加速しました。
大統領の声明と選挙、側近の相次ぐ逮捕
ニクソン大統領は、1972年6月22日の記者会見で、ウォーターゲートに関する最初の声明を発表しました。
ホワイト・ハウスは、この事件に何の関与もなかった。
1972年9月15日、ウォーターゲートに侵入した5人と一緒に、G・ゴードン・リディとハワード・ハントが起訴されました。
アメリカの大衆は大統領の声明を受け、ウォーターゲート事件に対する世間の関心は低下していました。
声明が効いてた!
リチャード・ニクソンは、1972年11月7日、一般投票の61%近くを得て再選しました。
選挙人投票は、リチャード・ニクソンに520票、ジョージ・マクガヴァンに17票でした。
1973年1月8日に、ウォーターゲートの5人の侵入者に有罪判決が言い渡されました。
その後、1973年1月30日、リチャード・ニクソンの2回目の就任直後。
G・ゴードン・リディとジェームズ・W・マッコード・ジュニアも陰謀、盗難、盗聴の罪で有罪判決を受けました。
1973年2月7日、サム・アービン上院議員を委員長とする、上院ウォーターゲート特別委員会が設立されました。
上院ウォーターゲート特別委員会の審問は1973年5月17日に始まり、全国に放送されました。
聴聞会の5日目に、ニクソンはウォーターゲートについての公式声明を発表しました。
私はウォーターゲートでの活動に関する事前の知識はありません。
私はウォーターゲートを隠蔽するためになされたことには関与していませんし、認識もしていませんでした。
侵入者の1人で、既に有罪判決を受けていたジェームズ・W・マッコード・ジュニアは、上院ウォーターゲート特別委員会に協力することに同意しました。
彼の証言は、ホワイトハウスと選挙関係者からの自白の門を開いたのです。
彼が心変わりしたのは、自供することで減刑して貰いたかったから、だそうです。
FBI長官のL・パトリック・グレイは、大統領法律顧問ジョン・ディーンがFBIの調査官に「おそらく嘘をついたのだ」と証言しました。
ジョン・ディーンは、ジョン・ミッチェル元司法長官がウォーターゲートへの侵入を命じ、ニクソン大統領がホワイトハウスの関与を隠蔽しようとする積極的な役割を果たしたと証言しました。
一方、ニクソン大統領は、1973年4月17日、ホワイトハウス付き記者団の前で、
誰が関わっていても、この問題を隠蔽しようとするどんな試みも非難する。
と断言。
ホワイトハウスは、大統領はウォーターゲート事件とは無関係だという公式声明を発表しました。
1973年4月30日、ニクソン大統領は、全国テレビに出演し、次の発表をしました。
ジョン・ディーンの解雇、側近であるボブ・ハロデマン、ジョン・エリクマン(国内大統領補佐官)の辞職です。
1973年7月7日、ニクソン大統領は上院ウォーターゲート特別委員会による大統領文書へのアクセスを拒否する行政特権を主張しました。
トカゲのしっぽ切りをして、さらに周り中を敵にしているという感じですね^^;
ニクソンテープと土曜日の夜の虐殺
膠着状態を打開したのは、大統領副補佐官であるアレクサンダー・バターフィールドの証言でした。
1973年7月16日、バターフィールド氏は、ニクソン大統領がホワイトハウスに録音システムを設置するように命令したと証言したのです。
ニクソンは出来事を記録に書き残すため、すべての会話を録音していたのです。
ニクソンテープは、大統領が知っているすべてと、正確な日付を提供してくれるでしょう。
ニクソン大統領は、ホワイトハウスの会話は国家の安全を守るため公開できないと、捜査官への「ニクソンテープ」の受け渡しを拒否しました。
1973年8月9日、上院委員会は最高裁判所を通じた法的措置を取ることにしました。
1973年8月29日、ジョン・ジョセフ・シリカ判事は非公開捜査のために9本以上のテープを渡すように命じました。
1973年10月、ニクソン大統領は要求されたテープの要約を渡すという妥協案を提示しました。
しかし特別検察官のアーチボルド・コックスは、この妥協案を拒否しました。
よほどテープを渡したくなかったのでしょう、ニクソンはコックスを辞めさせようと躍起になりました。
1973年10月20日の土曜日。
後に「土曜日の夜の虐殺」と呼ばれる驚くべき、次の一連の出来事が起きました。
- コックスが妥協案を拒否したことで、ニクソン大統領は直ちにコックスに辞任を要求
- コックスは辞任を拒否
- 大統領はエリオット・リチャードソン司法長官にコックスを解任するよう命令
- リチャードソンは大統領の要求を拒否して、辞任
- 大統領はウィリアム・ラッケルズハウス司法副長官にコックスを解任するよう命令
- ラッケルズハウスもまた大統領の要求を拒否して、辞任
- 大統領は、その後、訴訟長官、ロバート・ボークにコックスを解任するよう命令
- ボルクは大統領の要請に従い、コックスを解任、自分は司法長官に就任
しかしメディアに報じられ、ニクソンの評判は著しく損なわれることとなりました。
ギャグみたいですね^^;
同じ10月、ニクソン政権に別のスキャンダルが発生しました。
スピロ・アグニュー副大統領がメリーランド州知事に就任していた時、総額10万ドル以上の賄賂を受け取っていたのです。
これにより、副大統領はミシガン州議員のジェラルド・フォードに代わりました。
アーチボルド・コックス解任とウォーターゲート事件を取り巻く狂乱の後、ニクソンはシリカ判事にテープの一部を提出することに同意しました。
最初から素直に出していれば良いのに…。
ところで、ジョン・ジョセフ・シリカ判事は録音テープを提出させたことで有名になり、タイム誌のマン・オブ・ザ・イヤーにも選ばれています。
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1973年11月1日、コックスの跡を継ぎ、レオン・ジャウォスキーがウォーターゲート事件のための特別検察官に任命されました。
嘘つきまくりの会見と決定的証拠
1973年11月17日、ニクソン大統領は記者会見を行い、弁明を行いました。
私は正義の行いを妨害したことは一度もありません。
国民は自分たちの大統領が詐欺師かどうか知りたいでしょうから、今回の調査を歓迎します。
私は詐欺師ではない。
次の動画はその記者会見の時のものです。
「I am not a crook.」と言っているのが分かると思います。
※crook=詐欺師
このニクソン大統領の有名な「私は詐欺師ではない」という声明は、すぐに裏目に出ました。
1973年11月21日、召喚されたテープの2本は行方不明、1本は18分半の消去された部分があると、ホワイトハウスが報告したのです。
証拠が隠滅されたことは、明らかでした。
ウォーターゲート事件を取り巻く議論は引き続き激化しました。
どうしてすぐにバレる嘘をついたんでしょうね…思い切り詐欺師だし。
1974年4月16日、特別検察官レオン・ジャウォスキーは64本の追加テープを召喚しました。
しかしニクソン大統領は召喚令状を無視し、代わりに編集済みの写しを提出しました。
しかも往生際が悪いっ!
1974年7月24日、大統領特権を主張するニクソンを8−0で退け、最高裁判所はウォーターゲート事件の召喚状に従って録音テープを提出しなければならないと判決を出しました。
さらに1974年7月27〜30日の間に、下院司法委員会は、ウォーターゲート事件における大統領の役割について、ニクソンに3件の弾劾勧告を採択しました。
- ウォーターゲート調査の妨害
- 権力の濫用と就任宣誓の違反
- 議会の定めた召喚状を遵守しない
1974年8月5日、ニクソンは自発的に、3本の召喚状のテープを公開しました。
テープの1つは「決定的証拠(Smoking Gun)」テープとして知られるようになります。
「Smoking Gun」テープには、ウォーターゲートの侵入からわずか6日後に録音された会話が含まれていました。
ニクソンはホワイトハウス参謀だったボブ・ハロデマンに、FBIによるウォーターゲートへの調査を中止するため、CIAを使うよう命じていいました。
「Smoking Gun」テープでの暴露を受けて、ニクソンは残っていたわずかな支持者も失いました。
1974年8月8日、ニクソン大統領はテレビ番組で、
明日の正午に大統領を辞任する
と発表しました。
翌日の9日、ニクソン大統領はホワイトハウスを去り、副大統領のジェラルド・R・フォードが大統領になりました。
ニクソンは辞任することにより、上院からの反撃を阻止しました。
ジェラルド・フォード大統領は、1ヶ月後の9月8日、大統領権限でニクソンの罪を許しました。
恩赦です、つまり罪だったと認めたわけですね、まあ、普通に犯罪でしたが^^;
ニクソンは、大統領だった1969年1月20日から1974年8月9日までの間は、「米国に対するすべての犯罪」に対して「完全かつ自由で絶対的な」恩赦を与えられていたのです。
なんかズルイ…。
ところで「ディープ・スロート」情報源、密告者の正体は?
ワシントン・ポストのボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインに内部情報を提供した「ディープ・スロート」と呼ばれたミステリアスな情報提供者は、30年後に明らかになりました。
彼の名はマーク・フェルト(1913年8月17日 – 2008年12月18日)、FBI副長官で、1973年に退任しました。
フェルトはFBI長官だったフーヴァーを尊敬していて、死去の際は順当に行けば自分が長官に昇格すると思っていました。
しかしニクソン大統領が親しいL・パトリック・グレイを指名したため、とても失望していたのです。
そして、ウォーターゲート事件でCIAを使って、FBIの捜査を妨害したことにも憤慨していました。
フェルトが自分は「ディープ・スロート」であったと認めたのは、2005年5月31日になってからでした。
ウォーターゲート事件は、米国史上最悪の政治的スキャンダルでした。
まとめ
ウォーターゲート事件について、いかがでしたでしょうか。
- ニクソン大統領には「ワシントン・プラマー」と呼ばれる側近がいた
- そのメンバーのハントとリディが手配し、5人がウォーターゲート・オフィスビルに侵入
- 目的はニクソンを再選させるための盗聴だった
- ホワイトハウスは関与を否定、ニクソンは再選した
- 上院ウォーターゲート特別委員会が設置され、ニクソンテープの存在が発覚
- ニクソンはあくまで白を切るが、テープを提出させられ、嘘がバレてしまう
- ニクソンは辞任、その後、次の大統領によって恩赦される
- 内部情報を提供した「ディープ・スロート」は、FBI副長官だった
でした。
もうバレるだろう、という段階でも、私は詐欺師ではなーい!と言っちゃうニクソン大統領。
どういう神経してるんだろ?と思ってしまいました。
まだチャンスが、と思っていたのでしょうか??
罪を被った側近達は、納得してのことだったのかなど、いろいろ考えさせました。
大統領は亡くなると国葬をするのですが、ニクソン大統領はこういう事情だったので、国葬はされなかったそうです。
うーん、まあ、自業自得ですね。
余りにも嘘が多すぎて、呆れました。
さて、トランプ大統領はどうなるのでしょう?
弾劾の時だ!なんて言われてますね。
このニクソンよりヒドイでしょうか?
皆さんは、どう思われますか?