アメリカは日本に比べると、シリアルキラーが活動しやすい環境にあると思います。
圧倒的な国土の広さから、
- 遺体を隠しやすい
- 州を渡って逃げられると州警察が追いにくい
- 情報の共有が難しい
などなど。
シリアルキラー=連続殺人犯
今回は、事件内容より、家族(両親・妻・子供)との繋がりを中心に調べた、
シリアルキラーと家族、ワースト10の前半
をお送りします!
余りに長くなってしまったので、前半と後半に分けました。
10位:デニス・レイダー
生年月日:1945年3月9日
出生地:カンザス州ピッツバーグ
別名:BTKキラー
判決:175年の仮釈放無しの終身刑
配偶者:ポーラ・ディーツ(1971年〜2005年)
子供:2人
犠牲者数:10人
犯行期間:1974年〜1991年
逮捕日:2005年2月25日
刑務所:カンザス州、エルドラド刑務所
BTKキラー、「縛る(bind)」「拷問する(torture)」「殺す(kill)」の頭文字を繋げたもので、デニスが自ら名乗り、警察や地元新聞社に犯行声明文を送っていました。
デニスはカンザス州のピッツバーグで生まれましたが、同州最大の都市、ウィチタで育ちました。
彼の自白によると、子供の頃から動物を虐待していたそうです。
デニスは1974年から1988年にかけてセキュリティ会社で働き、主にBTKキラーを心配するクライアントのためにセキュリティアラームを設置する仕事をしていました。
自分で仕事を作り出していたのですね?!
最初の犯行は1974年、1月に4人。4月に1人。
次が1977年、3月に1人。12月に1人。
そして1985年、4月に1人。
次が1986年、9月に1人。
そして1991年、1月に1人。
間が空いていることを何故か?と訊かれ、
自分にも家庭と仕事があって忙しいのだ。
と答えたそうです。
なら、やるなよー!ですね。
逮捕のきっかけは、2005年2月にテレビ局にデニスが送ったフロッピーディスクに残された情報でした。
フロッピーディスクで身元が割れるか?と事前に警察に尋ねていたデニスは、警察からの「ディスクは安全だ」という新聞広告の返答を信じたのです。
でも実際は削除されたワード文書からメタデータが発見され、デニスは逮捕されました。
ちょっと間抜けでした。
妻ポーラは7月に離婚を申請し、認められました。
2014年、娘ケリーが1977年3月の殺害時の話をしました。
父親が被害者の命を奪っていた時、母親が妊娠3ヶ月だったことに気づいたのです。
父は1974年には刑務所に入るべきでした。私たちを育てる権利を得るべきではなかったのです。
また彼女は、スティーブン・キングが、デニスをモデルに『A Good Marriage』という作品を書いたことを批判したこともあります。
これは夫の二重生活を知らない妻が主人公の作品で、映画化もされました。
これです↑
カンザス州には死刑はなかったため、デニスには10人分の終身刑が言い渡されました。
175年後、デニスは仮釈放の対象となります。
って、生きられません!
デニスの幼少期の話を探したのですが見つからなかったので、子供の頃は普通の子だったのかもしれません。
キングの映画は私も観ましたが、デニスがモデルだったのですね。
家庭と仕事、殺人を両立させているあたりが、劇中と同じ、なるほどと思いました。
ただ、ラストは違いますけれど。
娘ケリーの写真はリンク先で見れますが、本当に普通のお父さんという感じで、事実は小説よりも奇なりだなあ、と思いました。
恐ろしいです。
しかしフロッピーディスクは…、自己顕示欲に負けたというところでしょうか。
ちょっとお間抜け。
9位:ドナルド・ヘンリー・ギャスキンズ
生年月日:1933年3月13日
出生地:サウスカロライナ州フィレンツェ群
没年月日:1991年9月6日(58歳)
死因:電気椅子
別名:ピーウィー
判決:死刑
配偶者:
13歳の少女(1951年〜1955年)
若い少女(1955年の2週間)
17歳の少女(1962年)
子供:1人
犠牲者数:9人の有罪判決、告白は100人以上
犯行期間:1953年〜1982年9月
逮捕日:1975年12月
ピーウィー、150cm台と背が低かったことからそう呼ばれていました。
母親は育児放棄をしており、ドナルドは1歳の時に灯油のボトルを誤って飲み、3歳まで痙攣に苦しみました。
父親からはいつも叩かれ、年齢の割に小さかったので、ピーウィーと呼ばれました。
彼は自分の本名がドナルドだと知ったのは、自分の初めての裁判の時でした。
ずっと自分の名はピーウィーだと思っていたのです。
ドナルドがアメリカ南部の海岸沿いのハイウェイで、ヒッチハイカー達を拾っては殺害するようになったのは、1969年のことでした。
80から90人は殺したと供述しています。
それまでのドナルドは、強盗などを繰り返しては逮捕、脱獄の繰り返しでした。
逮捕のきっかけは、1975年、ウォルター・ニーリーという犯行仲間が警察に密告したことでした。
2人の若い男性をドナルドが殺害したことを告白、さらに過去5年間に行方不明リストに載っていた数人がどこに埋められているかも示しました。
警察は8人の遺体を発見し、ドナルドは8件の殺人罪で起訴され有罪、死刑判決を受けました。
1982年、ドナルドはさらに殺人を犯しました。
高等警察刑務所内で同胞を殺害したのです。
ドナルドは、死刑囚を殺した、ただ1人の死刑囚です。
1991年9月6日に刑は執行されました。
1977年にサウスカロライナ州で死刑制度が復活して、電気椅子で死ぬのは4人目でした。
ドナルドは連れ出される数時間前に、前の週に隠しておいたカミソリの刃で手首を切って自殺しようとしました。
彼の最後の言葉は、
弁護士が代わりに話してくれます。逝く準備はできています。
でした。
シリアルキラーの親は育児放棄・虐待をしていることが多いですが、彼もその典型ですね。
体が小さかったのは、1歳の時に飲んだ灯油が原因の1つかも?と思いました。
もし親から愛されて育っていたら、ドナルドの人生も変わっていたかも知れません。
しかしこんなドナルドでも、3回も結婚した、しようとした女性がいたのが驚きです。
8位:アーサー・ショークロス
生年月日:1945年6月6日
出生地:メイン州キタリー
没年月日:2008年11月10日(63歳)
死因:心停止
別名:ジェネシー・リバー・キラー
判決:仮釈放なしの250年の禁固刑
配偶者:
サラ(1964年9月〜1966年)
?(1967年〜1970年?)
ペニー・シェアビーノ(1972年4月〜10月)
子供:2人
犠牲者数:14人
犯行期間:1972年5月7日〜1989年12月28日
逮捕日:1990年1月5日
ジェネシー・リバー・キラー、遺体をジェネシー川に捨てることが多かったことから、こう呼ばれました。
アーサーが9歳の時、軍人だった父親が赴任先のオーストラリアにも妻子がいることが分かり、夫婦仲が悪化しました。
このことで母親はアーサーへの愛情を失い、虐待するようになります。
学校の記録によると、成績は芳しくなく、いじめや暴力の傾向があり、放火や窃盗を繰り返しました。
9年生(日本でいう高校1年)のテストに合格できなかったアーサーは学校をやめ、その数年後、1963年12月に店の窓を壊したことで最初の実刑判決を受けました。
1967年10月、アーサーはベトナム戦争に従軍しました。
そこでアーサーは2人のベトナム少女と数人の子供を殺して食べた、と主張していますが、これを裏付ける証拠はありません。
また「コンバットキル(戦闘殺人)」で39人殺した、とも主張していますが、当局は彼は誰も殺さなかったと言っています。
1968年に軍務から戻ると、放火で捕まり有罪判決を受けました。
アーサーは5年の懲役を2年で仮釈放になりました。
故郷であるニューヨーク州ウォータータウンに戻った1年後の1972年4月7日、アーサーは最初の殺人を犯しました。
犠牲者は近所の10歳の少年でした。
9月には8歳の少女が犠牲になりました。
10月にアーサーは逮捕されましたが、少年の方の証拠がなかったので、少女の殺害だけの告訴でした。
アーサーは25年の懲役刑を受けました。
1987年に仮釈放されると、自分の過去がどこに行っても歓迎されないことにアーサーは気づきました。
そこで当局は犯罪歴を封印することを決め、アーサーは新しいガールフレンドのローズと共にニューヨークのロチェスターに移住しました。
えええ、仮釈放も早いですが、封印って…被害者は救われないですね。
アーサーが殺人を再開するのに長くはかかりませんでした。
1988年の3月から、22歳〜59歳の売春婦12人を残虐に殺害しました。
逮捕のきっかけは、最後の被害者の犯行現場に戻って来たアーサーを警察のヘリコプターが発見したことです。
アーサーは12人の殺害すべてを告白し、250年の禁固刑を受けました。
ニューヨーク州のサリバン矯正施設でアーサーは、母親に何百通もの手紙を書きました。
しかし返事が返ってくることはありませんでした。
2008年11月10日、足の痛みを訴えたアーサーは、翌日病院に移され、心停止で亡くなりました。
アーサーが殺人をするようになったきっかけは、親からの虐待でしょうか。
彼はずっと母親の愛情が欲しかったのかも知れませんね。
何百通もの手紙には、何が書かれていたのでしょう。
娘との写真を見ると、本当に普通のお父さんです。
そして彼もやたらと結婚している=モテている?ますね。
しかし仮釈放が無かったら、12人は生きていたのに、とも思います。
7位:リチャード・ラミレス
生年月日:1960年2月29日
出生地:テキサス州エルパソ
没年月日:2013年6月7日(53歳)
死因:B細胞リンパ腫
別名:ナイト・ストーカー
判決:死刑
配偶者:ドリーン・リオイ(1996年〜2013年)
犠牲者数:13人
犯行期間:1984年4月10日〜1985年8月24日
逮捕日:1985年8月31日
リチャードは7人兄弟の末っ子として生まれました。
ベトナム戦争帰りのいとこから強く影響を受け、悪魔崇拝やマリファナを覚え、軽犯罪を犯すようになりました。
1977年にリチャードの犯罪記録は始まり、コカイン中毒や強盗、車の窃盗など、数ヶ月の実刑判決を受けたこともありました。
1984年、窃盗は暴力に変わり、リチャードの最初の殺人事件が起こりました。
犠牲者はロサンゼルスに住む79歳の女性でした。
リチャードはロサンゼルス郊外を中心に、次々と民家に侵入し、暴行、虐殺を繰り返し、13人を殺害しました。
犠牲者は9歳の少女から60代後半の夫婦と、無差別でした。
犯行現場には、悪魔のシンボルである逆五芒星を残しました。
逮捕のきっかけは、最後の犠牲者の車に残されていた指紋でした。
これにより過去の犯罪歴からリチャードの顔写真が新聞の一面に指名手配として載ったのです。
そうとは知らないリチャードは、行きつけのお店に入り、新聞を見て驚きました。
住民から袋叩きにあっているところへ、通報を受けた警察が来て助け出された、もとい、逮捕されました。
ちなみに逮捕した保安官代理も同じヒスパニックのラミレス姓で、同い年でした。
1989年11月7日に死刑判決が下され、リチャードはカリフォルニア州のサン・クエンティン州立刑務所に移されました。
リチャードは上訴と再審請求を繰り返しました。
そうしながら、1996年、悪魔礼拝を続けるリチャードを崇拝するドリーン・リオイと獄中結婚しました。
ドリーンは大量のラブレターを送り、リチャードが無罪だと信じていたそうです。
リチャードは2013年6月7日、B細胞リンパ腫による合併症で死亡しました。
サン・クエンティンの所員によると、グリーンブレインのマリン総合病院に運んですぐの死亡だったとのことです。
妻のドリーンは、リチャードの死後、公に姿を現していません。
イケメンで有名らしいです、グルーピーもたくさんいたみたいで。
でもやっていたことはかなり最低だと思うのですが。
厳格なカトリック教徒の家庭で、特にひどく幼少期に虐待されたというような記述は見当たらなかったのですが、ベトナム帰りのいとこは結構ドギツイ影響を与えたみたいです。
裁判も引き延ばしに延ばしたらしいし、なんだか潔くないよなあ、どこがカッコイイの?と私には思えました。
6位:ジェフリー・ダーマー
生年月日:1960年5月21日
出生地:ウィスコンシン州ミルウォーキー
没年月日:1994年11月28日(34歳)
死因:殺人(重度の頭部外傷)
別名:ミルウォーキーの食人鬼
判決:終身刑
犠牲者数:17人
犯行期間:1978年6月18日〜1991年7月19日
逮捕日:1991年7月22日
ミルウォーキーの食人鬼、遺体を解体、冷蔵庫に保存、食す行為にまで及びました。
ジェフリーは4歳までは幸せな生活を送っていましたが、段々と両親の仲が悪くなり、子供に構わなくなりました。
弟が生まれると、状況はさらに酷くなり、両親はついに離婚してしまいました。
子供の頃にジェフリーが興味を持ったのは動物でした。
自宅の裏が森林地帯だったので、動物の死体を集めてきては、解体して保管し、興味を持って眺めました。
父親に鶏の骨を漂白剤に入れるとどうなるかと尋ねたこともありました。
ジェフリーは動物の骨を熱心に集めました。
最初の殺人は高校を卒業した直後の1978年6月でした。
ジェフリーはヒッチハイカーの少年を自宅に招き入れ、帰ろうした彼を、今まで自分が動物にしてきたように解体し、自宅の裏に葬りました。
この時、再婚した父親と一緒に住んでいたジェフリーは酒に溺れてアル中状態で、父親はジェフリーを軍隊に入れました。
そしてドイツに赴任するも、やはり飲酒問題で3年で退去させられました。
そんなジェフリーを持て余した父親は、祖母に預けることにしました。
ジェフリーはチェコレート工場で働き始めましたが、アル中状態は続き、1987年、2番目の犠牲者が出てしまいます。
ジェフリーの殺害は13年以上続きました。
ゲイバーやショッピングモール、バス停などでアフリカ系アメリカ人男性に声をかけ、家に誘い込んで殺害しました。
祖母は帰りの遅い、酔っ払いの孫にとことんウンザリして、1988年には家から追い出しました。
一連の殺害については全く気付かなかったそうです。
ジェフリーはアパートを借りました。
逮捕のきっかけは、1991年7月22日、手首に手錠をかけられたアフリカ系アメリカ人男性が歩いているのを警察官2人が見つけたことでした。
彼はジェフリーのアパートから逃げ出してきた被害者でした。
ジェフリーは尋問中に殺人を告白したにも関わらず、告訴には無罪を訴えました。
しかし終身刑が言い渡されました。(ウィスコンシン州は死刑制度が廃止されています。)
ジェフリーは刑務所の生活に良く適応していたと言われています。
父親から送られた本や写真から宗教に興味を持ち、地元の牧師に洗礼を受けるための許可をコロンビア連邦刑務所に貰いました。
1994年11月28日、ジェフリーは2人の有罪判決を受けた殺人犯の3人で、シャワー室清掃作業を命じられました。
看守が戻ると、クリストファー・スカーヴァーが金属の棒で2人を投打したのを発見しました。
2人は病院へ運ばれましたが、ジェフリーは1時間後に死亡、もう1人も数日後に死亡しました。
2015年、スカーヴァーはジェフリーを殺害したのは彼の犯罪歴だけが理由ではないと言いました。
刑務所の食べ物をバラバラの手足みたいに扱う習慣にイライラさせられていたのだそうです。
また看守が殺人犯だけにしたから、殺人が起こるのだとも主張しています。
一方、父親はジェフリーについての本も出版しました。
本による収益の一部は被害者への慰謝料として寄付していましたが、ある被害者から訴訟を起こされ、裁判費用がかかっているので寄付が難しくなっているという話です。
ジェフリーのケースも身体的虐待はないけれど、育児放棄ですね。
母親は裁判の数年後に亡くなってしまったそうですが、父親は再婚した後も、ジェフリーを支えようとしてくれたのは幸いだったなと思いました。
しかし彼は、彼の犯罪を憎んだ囚人達によって殺されたのだとばかり思っていましたが、全然関係なく殺されていたのに驚きました!
殺人者の中では、彼もただの人間だったのだなと思いました…。
まとめ
シリアルキラーと家族アメリカワースト10前半、いかがでしたでしょうか。
- 10位:デニス・レイダー
- 9位:ドナルド・ヘンリー・ギャスキンズ
- 8位:アーサー・ショークロス
- 7位:リチャード・ラミレス
- 6位:ジェフリー・ダーマー
でした。
彼らの犯した罪は余りに重いものですが、家族との繋がりを見ると、いろいろ考えさせられるなと思いました。
特に育児放棄、虐待は、心が痛みますね。
後半では、さらに有名なシリアルキラーが登場します!!