アメリカは、キューバの独立を助ける米西戦争のドサクサで、フィリピンを自分の植民地にしました。
うーん、ヒドイ、酷過ぎる。
アメリカって嫌なヤツだな。
その後、フィリピンはアメリカに対して猛反撃!
(そりゃ、そーだ。)
そして起こったのが米比戦争です。
この戦争で20万人から150万人の犠牲者が出たとか…(数字の幅が広い)…でも米西戦争より全然多い!
いったい、どういうこと??
アメリカの植民地時代のフィリピン、国同士の思わぬ思いも見えてきて、どっちが悪かったのか…。
いや、戦争だから、どっちも、なのかな。
この記事では、
- 米西戦争からアメリカの植民地へ
- 米比戦争でのアメリカの思惑
- フィリピンの思惑
- アメリカに忠誠を誓った経緯
- 独立を認めたアメリカ、何故?
についてわかりやすくご説明します。
フィリピンはどうしてアメリカの植民地になったのか?
まずはフィリピンの位置を確認!
赤くなっているココ、日本のような島国ですね↓
フィリピンには2万年前から住民がいたと言われています。
そんな歴史あるフィリピンは、15世紀、島々に王国があり貿易も盛んでした。
しかし1521年にスペイン艦隊が到着。
1529年にポルトガルとスペインはサラゴサ条約を結び、フィリピンをスペインの領土としました。
いや、勝手に決めるなよ、って感じですね。
スペイン植民地時代の始まりです。
スペインの植民地化は300年以上続きました。
変わったきっかけは、米西戦争です。
1898年にアメリカとスペインの間にあった戦争です。
表向きは、同じくスペインの植民地となっていたキューバの独立を支援するもので、アメリカはフィリピンの独立にも全面協力すると約束しました。
これを信じて香港へ亡命していたフィリピン革命家、エミリオ・アギナルドは帰国し、戦争中、アメリカに協力しました。
わずか3か月で米西戦争はアメリカの勝利で終了。
アギナルドは約束を信じて独立宣言をし、1899年にフィリピン第一共和国の初代大統領となりました。
ところが。
アメリカは約束を反故にして、スペインから約2000万ドルでフィリピンを譲渡するパリ講和条約を結んだのです。
植民地支配がスペインからアメリカに変わった瞬間でした。
現代なら、世界中から非難され、こんなことは許されなかったのでしょうが、植民地が当たり前だった時代…フィリピンはどんなにか悔しかったことでしょうね。
ここまでの流れを簡単に年表にまとめておきます。
月/年 | 出来事 |
---|---|
1521 | スペイン艦隊がフィリピンに到来 |
1529 | フィリピンをスペイン領土にするという(スペインとポルトガルの)サラゴサ条約締結 〜スペイン植民地時代の始まり〜 |
4/1898 | 米西戦争が勃発 |
6/1898 | フィリピン革命軍が独立を宣言 |
12/1898 | アメリカはスペインから約2000万ドルでフィリピンを譲渡するパリ講和条約締結 〜アメリカ植民地時代の始まり〜 |
1/1899 | フィリピン第一共和国を建国 |
パリ講和条約が締結される前、アギナルドはアメリカ大統領と会談するため革命政府代表を派遣するなど、植民地化阻止への努力をしました。
しかし元々フィリピンをスペインから奪って植民地にするつもりだったアメリカとの交渉は上手くいきませんでした。
そして1899年2月、アメリカはパリ講和条約を批准、条約は発動されました。
フィリピン国民は激しく抗議し、すぐに米比戦争が勃発します。
米比戦争の始まり
戦争について、まず要点だけをまとめます。
- 米比戦争(Philippine–American War)
- いつ?:
1899年2月4日から1902年7月2日
3年4か月と4週間 - どこで?:フィリピン
- 誰が?:アメリカ合衆国と、フィリピンが、
- 何をした?:戦争をして、アメリカ合衆国の勝利
以前は同盟国であったアメリカの裏切り。
独立したかったフィリピン人と、植民地化したいアメリカ兵の間の緊張は悪化していきました。
まあ、フィリピン人が怒るのは当然ですよね。
戦争のきっかけは1899年2月4日 、フィリピン人兵士がアメリカ占領地域にあるサン・フアン・デル・モンテの橋で、ウィリアム・グレイソンというアメリカ兵に射殺されたことでした。
ウィリアム・マッキンリー大統領は、フィリピンに対する戦争を正当化するため、
反乱軍がマニラを攻撃した
と記者団に語っています。
フィリピン国立歴史研究所の最近の証拠では、
- フィリピン人兵士は(酔っ払った)アメリカ兵によって射殺された
- 場所はサン・フアン・デル・モンテではなく、現在のマニラのソシエゴ通りである
とされています。
その一方で、マッキンリー政権はアギナルドを「無法者の盗賊」と宣言し、正式な宣戦布告は行いませんでした。
これには2つの理由があります。
- 戦争を「フィリピンの暴動」と呼ぶことにより、合法的な政府に対する反乱(国同士の戦いではない)ように思わせるため。
実際のところ、アメリカの支配下にあったのはマニラだけでした。 - アメリカ政府が退役軍人による訴訟の責任を回避できるようにするため。
米西戦争で財政がピンチでした。
うーん、なんか色々とズルイ、アメリカ。
こうして米比戦争の最初の戦いとなるマニラの戦い(Battle of Manila)では、フィリピン人とアメリカ人に何千人もの犠牲者をもたらすこととなります。
米比戦争最大となったマニラの戦い
マニラの戦いは、1899年2月4日と5日、2日間の戦いです。
19,000人のアメリカ兵と、15,000人のフィリピン武装民兵の間で行われました。
フィリピン大統領のアギナルドは、停戦を交渉するために使者を送りました。
しかしアメリカのオーティス将軍は交渉を拒否、戦闘は激化しました。
フィリピン武装民兵は、スペインとの戦いには慣れていました。
スペインは夜に襲撃されると、要塞化した都市に後退するのが常でした。
だからアメリカ兵が攻撃してきた時は、とても驚きました。
またマニラの市民が暴動を起こし、アメリカ軍の分裂と補給ラインを分断してくれるだろうと思っていました。
実際は、市内でいくつか火災は起きましたが、アメリカの憲兵司令官(軍事警察)が暴動を抑え込んだため、期待通りにはいきませんでした。
こうして、塹壕にはフィリピン武装民兵の遺体が並び、米軍の公式レポートには、
フィリピン人の死傷者は4,000人、700人が死亡した
と記載されています。
一方、アメリカ人の死傷者は238人、死亡が44人(怪我が原因)でした。
フィリピン人の戦いはまだ続きます。
1899年6月2日、フィリピン第一共和国は正式にアメリカに宣戦布告しました。
アメリカと軍の考え
アメリカによるフィリピン併合は、旧スペイン植民地の人々の解放と保護の名の下に、アメリカ政府とメディアによって正当化されました。
そのためアメリカ人の多くは、フィリピンが喜んで併合されていると思っていました。
オーティス将軍は、ワシントンにいる上司から軍事紛争を回避するよう、指示されていましたが、戦争勃発を防ぐ努力をほとんどしませんでした。
フィリピン軍の無条件降伏以外はすべて拒否し、上司の指示を得ることなく、主要な軍事的決定も下していました。
抵抗はどうせすぐに終わると信じ、積極的にフィリピン人を攻撃したのです。
そして、犠牲は孤立した無法者集団(フィリピン反乱軍)のせいだと主張し続けました。
またオーティスは、フィリピン反乱軍がアメリカの囚人を「悪魔のようなやり方」で拷問した、とも言っています。
これに対抗して、アギナルドは外国のジャーナリストや赤十字国際委員会の代表を招き入れ、調査をさせました。
彼らは「アメリカの捕虜は囚人よりも客人として扱われていた」「国が許す限り最高の食べ物を与えられ、好意的に扱われていた」と報告しています。
映画や小説にも、こういうタイプの軍人ってよく出てきますね。
そう、悪役で…。
フィリピンの戦略
アメリカ軍のレポートによると、フィリピン軍の推定数は、8万から10万の間で、他に数万人の助っ人がいました。
ほとんどの部隊は、ボロナイフ、弓矢、槍など原始的な武器で武装していて、アメリカ軍の銃に比べるとかなり劣ったものでした。
↑フィリピン独立の像、手にしているのがボロです。
(※画像は©️Wikimedia Commons/画像に変更を加えておりません)
スペイン植民地時代のフィリピンには、厳しいカースト制度が存在していました。
そのため、フィリピン第一共和国が求める理想は、教育を受けた少数の人々が政権を握る国家でした。
戦闘部隊の大部分を占める農民達には、彼らなりの考えがありました。
また彼らを支配する地元の首長、地主などにも、彼らなりの考えがありました。
島国で地理的に離れていることもあり、様々な社会的カーストの人々の気持ちを一致させるのは、とても困難な作業でした。
アギナルドは、フィリピン国民がアメリカに反抗し続けるよう、心を配りました。
フィリピンの将軍は、戦争の目的を、
アメリカ軍を打ち負かすのではなく、ずっと変わることなく損失を負わせるため
だと語りました。
(裏切りへの報復という意味?)
本音は、1900年のアメリカ大統領選挙で、マッキンリーが敗北するに十分なアメリカ兵の犠牲者を出すことでした。
反帝国主義の将軍は、アメリカ軍撤退を望んでいたのです。
(結局、打ち負かしたかったのですね…。)
しかしマッキンリーは選挙で勝利し、多くのフィリピン人はアメリカは撤退しないと確信しました。
士気はくじかれたのです。
『ルナ将軍』は、米比戦争でのアントニオ・ルナ将軍の活躍を描いた2015年の伝記映画です↓
当時の雰囲気が分かります。
(フィリピン軍も銃を持っているように見えますが、最前線だけだったのでしょうか…。)
1899年11月13日、アギナルドは最終手段としていたゲリラ戦がこれからの戦いの主力になると宣言しました。
フィリピン陸軍は、待ち伏せと襲撃のゲリラ戦を繰り広げ、4か月でアメリカ人約500人の犠牲者を出しました。
アメリカはフィリピン列島を占領することは難しいと判断し、マッキンリー大統領は撤退も検討しました。
オーティスの跡を継いだアーサー・マッカーサー・ジュニア(あのダグラス・マッカーサーの父)は、ゲリラをもはや容認できないとし、戒厳令を敷きました。
そして制服ではなく農民の服を着て、民間人から軍事的地位に移行したゲリラを厳しく追及しました。
またゲリラを支援しながら、アメリカの占領下でアメリカの保護を受け入れていた委員会を「戦争反逆者」として扱いました。
独立に向けて活動していた指導者は、グアムに強制送還されました。
アメリカが本気になって怒っていますね。
それだけ、ゲリラが恐ろしかったのでしょう。
フィリピン第一共和国の衰退と崩壊
アギナルドは作戦基地を絶えず変更しながら戦ってきましたが、1901年3月にアメリカ軍に寝返ったフィリピン人の裏切りで、アメリカ軍の手に落ちました。
アメリカ人は、フィリピン軍の制服を着たマカベベ・スカウトの捕虜の振りをして近付いたのです。
水責めの拷問を行うマカベベ・スカウト↑
(※画像は©️Wikimedia Commons/画像に変更を加えておりません)
1901年4月、マニラのマラカニアン宮殿でアギナルドは、アメリカを受け入れ、政府への忠誠を誓う誓約をしました。
正式に降伏を宣言し、武器を置いて戦いを放棄するようフィリピン兵に伝えました。
アギナルドが捕まったことは、フィリピン人に大きな打撃となりましたが、アメリカが期待したほどではありませんでした。
何故なら、フィリピン政府のリーダーをミゲル・マルバール将軍が引き継いだからです。
マルバールは、アメリカが支配する町に全面攻撃を開始しました。
またサマール島のビンセンテ・ルクバン将軍や他の陸軍将校達も、それぞれの地域で戦争を続けました。
1901年9月、サマール島のバランギガで、ゲリラがアメリカ軍を襲撃、54人が死亡、18人が負傷しました。
これに激怒したアメリカのスミス将軍は、町に火をつけ、住民に無差別攻撃という報復をしました。
「10歳以上は全て殺せ(KILL EVERY ONE OVER TEN)」
虐殺による死者数は不明となっていますが、かなりの住民が殺されたのは確実です。
1902年にこの虐殺が明らかになると、アメリカの反帝国主義グループから批判を受け、スミス将軍は軍法会議に掛けられ、引退させられています。
アメリカ軍はマルバール将軍を執拗に追いかけ、多くのフィリピン兵を降伏させました。
そして遂に1902年4月、病気の妻と子供達と共にマルバールは降伏しました。
3000人の兵も降伏しました。
犠牲者の数ですが、アメリカ国務省は、
戦争により、4200人のアメリカ人と2万人のフィリピン兵士が死亡した。
また20万人のフィリピン人が、暴力、飢えや病気で死亡した。
と述べています。
しかし一方で、アメリカの政治学者ルドルフ・ランメルは、
12万8千人のフィリピン人がアメリカ兵によって殺害されている。
と主張しています。
もう数が多過ぎて分からない…。
では、米比戦争の流れを簡単ですが年表にまとめておきますね。
月/年 | 出来事 |
---|---|
2/1899 | フィリピン兵士がアメリカ兵に射殺される |
2/1899 | マニラの戦い |
6/1899 | フィリピン第一共和国がアメリカに正式に宣戦布告 |
3/1901 | アギナルドがアメリカ軍の捕虜になり、降伏を宣言 |
4/1902 | 後を引き継いだマルバールが降伏、戦争終了 |
最後に、フィリピンを植民地にしたことでどう変わったか?というお話です。
アメリカ植民地化による影響と独立
アメリカは占領により、フィリピンの文化を変えました。
フィリピンが国教としていたカトリック教会を廃止
そして土地改革の試みのひとつとして、教会の土地を購入し、土地を持たない農民に貸し出しました。
主要な言語として、英語を導入
アメリカから500人の教師が派遣されました。
全島で公立小学校を建設し、無償で就学の機会を与えました。
あれ、思ったより良い人じゃないですか?アメリカ。
アメリカは最終的に自由を与えるという目標を持ってフィリピンを占領しました。
そのためにまずは、フィリピンは独立の準備を整える必要がありました。
学校、インフラを整備し、独立へのステップは、少しずつ進められました。
1916年、アメリカ議会でフィリピン自治法=ジョーンズ法が可決
将来の独立を認める公式の宣言をしました。
1934年、アメリカ議会でフィリピン独立法=タイディングス・マクダフィー法が可決
10年後のフィリピン独立が承認されました。
途中、第二次世界大戦で日本軍が上陸したことにより、中断・遅延しましたが、
1946年、マニラ条約により、アメリカはフィリピンの独立を認めました
うーん、長かったですね。
フィリピン、おめでとう!!
あれ、でもだったら何でアメリカはあんなに犠牲を払ってフィリピンを植民地にしたのでしょう?
アメリカが植民地したそもそもの理由
理由はいろいろありますが、
アメリカが経済大国になるため、太平洋の戦略的ロケーションとしてフィリピンを植民地化しました。
帝国主義がヨーロッパで盛んだった時代、ヨーロッパの経済は栄えていました。
これは、植民地化で他国に簡単にアクセスできる=貿易の成功、が主な理由です。
アメリカは、フィリピンが中国や他のアジア諸国との貿易をするのに、重要な港になる、と考えたのです。
実際、アメリカはフィリピンをうまく利用しました。
港や石炭の補給ステーションの他、計画通りに中国との貿易を通じて、アメリカに大きな利益をもたらしました。
フィリピンは島国なので、マニラ湾のように優れた自然の港に恵まれていました。
また、フィリピンには価値の高い天然資源がたくさんありました。
最初はそれが理由ではありませんでしたが、植民地化を維持する理由のひとつは、資源の豊富さでした。
膨大な森林地帯で構成されたフィリピンには、肥沃な土地、さまざまな鉱物、新鮮な木材、豊かな漁業がありました。
マホガニーはフィリピンで人気の木で、アメリカでも有用でした。
でも、アメリカはフィリピンを独立させました、その理由は?
アメリカがフィリピン独立を認めた理由
米比戦争で、フィリピンの独立運動を押さえ込むため、アメリカ軍は虐殺など恐ろしいことをたくさんしました。
アメリカ国内でこの件が明らかになると、多くの人が自分達の国の名で犯された犯罪に激怒しました。
セオドア・ルーズベルト大統領も、流血や苦しみ、アメリカの落ちた評判に唖然としたと言います。
そこで、和解を交渉することになったのです。
また一方では、アメリカがフィリピンの島々を管理し続ける場合、多額な費用と大きな軍事力が必要になるのを嫌った、ということもあります。
(同時期に占領されたグアムは小さな島で、人口が少なく、独立したいという意志が見られませんでした。)
フィリピンは事実上のアメリカ保護国となり、自治権は制限されましたが、政府と経済インフラへの投資が行われました。
そしてアメリカ議会で法が可決され、完全自治化、アメリカ主権の廃止、アメリカ軍基地の撤去が段階を踏んで行われたのです。
まとめ
フィリピンのアメリカ植民地時代【米比戦争】わかりやすくまとめたよ、いかがでしたでしょうか?
- 米西戦争でフィリピンの独立を約束していたアメリカは、戦争終了後に約束を反故にして植民地にした
- フィリピンは激怒、兵士がアメリカ兵に射殺されたことで米比戦争が勃発
- 米比戦争最大のマニラの戦いが起き、暴動としていたアメリカにフィリピンが正式に宣戦布告
- アメリカ国内では喜んで併合されていると思っていた
- アメリカ軍は積極的にフィリピンを攻撃
- フィリピンにはカースト制度があり、気持ちが一つになるのは難しかった
- ゲリラ戦でアメリカは消耗、厳しくフィリピンを攻めた
- アギナルド大統領が降伏するも、戦いは続き、アメリカの虐殺も起きた
- 約3年5か月で戦争はようやく終わった
- アメリカは教育の機会を与え、フィリピン独立の準備をし、約47年の時を経てフィリピンは独立した
- アメリカは太平洋の戦略的ロケーションと天然資源が魅力で植民地化した
- しかし評判の悪化と、多額な費用と軍事力が必要なのを嫌い、独立を支援した
でした。
米西戦争で約束を反故にした時は、なんて嫌なヤツなんだー!と思ったアメリカでしたが、まあ、独立の約束は最終的に守れたのかな、と思いました。
たくさんの犠牲があったから、だと思いますが。
本当に被害者の数には圧倒されますね。
戦争って、やはり良いことないです。