ニューディール政策は、ルーズベルト大統領が大恐慌後に行った経済政策です。
いったいどんな政策だったのか?
この記事では、
- 3Rと呼ばれるニューディール政策の内容
- ファーストとセカンドに分かれる政策の違い
- ケインズ理論に逆って起きたルーズベルト不況
をわかりやすく説明します。
最後に、
結果は失敗だったのか?
についても触れます。
ニューディール政策の内容をわかりやすく言うと3R
フランクリン・D・ルーズベルトは、1933年3月4日から1945年4月12日まで就任した、第32代アメリカ大統領です。
ルーズベルトの大統領任期中に行った、最も重要な事のひとつがニューディール政策でした。
ニューディール政策は、大恐慌の影響に対処するため
- Relief(救済)
貧困と失業者の苦しみを軽減するため直接援助を提供 - Recovery(回復)
経済の回復、消費者の需要の流れを再開することにより仕事を創出、企業が成長するのを手助け - Reform(改革)
経済危機を緩和、不況を回避、将来の経済危機を防ぐ永続的なプログラムを導入する金融システムの改革
の3つのRを柱にアメリカ政府が施行した政策です。
頭文字で呼ばれていたので、ニューディール政策は、「アルファベット・スープ」と言われました
可愛らしいネーミングですね!
ニューディール政策は、2段階に分けられます。
- ファーストニューディール(大統領に就任した最初の2年間、1933年から1934年)
貧困層のための国家計画法 - セカンドニューディール(1935年から1939年までの4年間)
社会改革と国家の復興を加速する政策
ではファーストから順に見ていきましょう。
ファーストニューディールは公共事業
ルーズベルトは大統領になると、すぐに仕事を始めました。
就任時には、大恐慌の影響で1,200万人を超える失業者(人口の25%)がいて100万人以上がホームレスだったのです。
緊急の対策が必要でしたから、
ファーストニューディールは貧困層のための国家計画でした。
最初の100日間で、緊急銀行救済法、グラス・スティーガル法、証券取引法など多くの新しい法律を制定しました。
それでは、最初の2年間に行われたニューディール政策を、具体的に見てみます。
Relief(救済)
- 緊急銀行救済法
– 銀行システムの規制 - FERA(連邦緊急救済法)
– 救済プロジェクトのための助成金設定 - PWA(公共事業局)
– 米国のインフラ整備、高速道路、空港、橋、ダム、灌漑や下水道の建設など、34,000件の政府支援の公共事業プロジェクト→数100万の雇用を創出 - CCC(民間資源保存局)
– 30億本以上の植林を行い、97,000マイルの林道と道路を建設し、およそ10億の飼育した魚を川に放流し、野生動物の個体数を増加 - TVA(テネシー川流域開発公社)
– 安い水力発電で地域の経済発展を支援
Recovery(回復)
- NIRA(全国産業復興法)
– 各産業ごとに価格・賃金の協定を作り、価格と賃金の安定、産業の復興を支援 - AAA(農業調整法)
– 農作物の生産削減に対する補助金、価格を第一次世界大戦水準に回復することを保証 - HOLC(住宅ローン公社)
– 住宅ローンのリファイナンス支援 - FHA(連邦住宅局)
– 住宅ローン市場を安定
Reform(改革)
- グラス・スティーガル法
– 銀行と証券の分離を規定し、金融活動を規制 - 証券取引法
これだけの政策を行いましたが、経済はわずかな改善しか見られませんでした。
もっと効果的に大恐慌の影響に対処するよう、抗議の声が上がりました。
かつて支援者だったヒューイ・ロングは、富裕層への攻撃と貧困層擁護で、かなりの支持を得るようになりました。
(しかし大統領選挙を脅かす前に暗殺されました。)
またチャールズ・カフリン司祭も、かつてはルーズベルトを支持していましたが、反ルーズベルト・反ニューディールになり、社会正義全国同盟を結成しました。フランシス・タウンゼント医師は、カフリン司祭と協力し、ヒューイ・ロングの後継者であるジェラルド・L・K・スミスと手を組みました。
3人は1936年の大統領選挙で、貧困層の投票を利用して、ルーズベルトの再選を阻止する計画を立てたのです。
ここまで邪魔されて、ルーズベルトは再選できたのか??
大統領選挙の結果は、次のセカンドニューディールで!
セカンドニューディールの政策
ルーズベルト大統領への強い批判と反対の中、1935年から1939年のセカンドニューディールが始まりました。
セカンドニューディールは、社会改革と国家の復興を加速する政策です。
セカンドニューディールに制定された法律と発足した機関
- WPA(雇用促進局)
– 米国最大の雇用主となり、何百万人もの技術の未熟な労働者にも仕事を提供し、学校、病院、図書館、郵便局、住宅を建設 - REA(農村電化事業団)
– 農村に電力を供給するために設立、米国農場の98%に電力が供給 - 社会保障法
– 失業保険制度、国の年金基金、労働災害犠牲者のための給付を確立 - 全国労働関係法(通称:ワーグナー法)
– 労働者が労働組合を組織する権利と、賃金、時間、労働条件の交渉のための団体交渉権の保証 - 公正労働基準法
– 児童労働を廃止し、従業員の勤務時間を制限
セカンドニューディールでの批判、共和党からの反論にも関わらず、ルーズベルトは1936年11月、共和党のアルフレッド・ランドンに大差で勝利しました!(獲得選挙人:523対8)
ランドンは大統領選挙後、政界を引退しました…。
ケインズ理論に逆らってルーズベルト不況!
1937年の春には、最悪の景気後退は終わったかのように見えました。
失業率はまだ高いけれど、生産、利益、賃金は1929年の水準を回復していました。
ルーズベルト大統領はバランスの取れた予算を放棄し、救済プログラムの資金調達のため、一時的な赤字支出政策を採用しました。
インフレと連邦財政の赤字の可能性を心配した大統領は、連邦政府予算の削減を説く予算のバランスを取るべき時だと判断したのです。
結果、PWA(公共事業局)とWPA(雇用促進局)の予算が大幅に削減され、失業率が急上昇しました。
工業生産は33%減少し、賃金は35%低下しました。
この景気後退は、連邦支出の減少に起因して、「ルーズベルト・リセッション(ルーズベルト不況)」と呼ばれ、セカンド・ニューディールでの大きな出来事の一つです。
PWAの責任者であるハロルド・イッケスとWPAのハリー・L・ホプキンズは、セカンドニューディール期間中に、大統領にまた政府支出を増やすよう促しました。
彼らは、ジョン・メイナード・ケインズの経済理論に基づいた、ケインズ主義の支持者でした。
要するに、雇用と生産を急速に進めたければ、財政が赤字でも、政府は多額の費用をかけなければならない、ということですね。
しかし大統領は財政赤字を削減しようとしたため、「ルーズベルト・リセッション」を引き起こしてしまったのです。
1938年の春になっても、経済は回復の兆候を示しませんでした。
大統領は経済を安定させるために、ケインズ理論に戻り、赤字支出を行ったのでした。
最後に、ニューディール政策の結果についてのお話です。
結果は失敗だったのか?
ニューディール政策は結局、失敗だったのでしょうか?
アメリカでの評価は、成功したことについては、多くの点で成功した!
- 銀行システムが安定した
- 政府が支援する公共事業プロジェクトは、米国のインフラを再建し、雇用を創出した
- 労働者は労働組合を組織する権利と、団体交渉権が保証された
- 公正労働基準法、社会保障法が制定された
ということを挙げていました。
一方、失敗したことについては、
- AAA(農業調整法)は、食料価格を最大50%も上昇させてしまった
- 「ルーズベルト・リセッション」では、失業率の急上昇をもたらした
- ビジネス業界は、ストライキや労働組合を奨励するニューディール政策を敵と見なした
- ニューディール政策での雇用の多くは一時的なものだった
ということを挙げていました。
ニューディール政策の評価は未だに失敗だったのか、成功だったのか、意見が分かれていますが、政策自体を見れば、「失敗」寄りになっているようです。
何と言っても、大恐慌での不況は解消されなかったのですから、仕方ないですよね。
まとめ
ニューディール政策について、いかがでしたでしょうか。
- ニューディール政策は、大恐慌の影響に対処するため、救済、回復、改革の3つ柱のプログラム
- ファーストニューディールは貧困層のための国家計画
- 100日間で、緊急銀行救済法、グラス・スティーガル法、証券取引法など多くの法律を制定
- セカンドニューディールは社会改革と国家の復興を加速する政策
- ルーズベルト・リセッションを起こしてケインズ理論に戻る
- ニューディール政策は失敗だったという評価が多くなってきている
でした。
経済を立て直す、しかもあの大恐慌の後ですから、そりゃあ、難しいですよね。
ルーズベルト大統領は頑張ったんじゃないかなあと、素人の私は思ってしまいました。
ところで、このニューディールのディールは、トランプカードゲームで親(ディーラー)がカードを配り直す(ニューディールする)ということですよね。
アメリカらしい発想のネーミングかも、と思いました。
大恐慌について詳しくはこちら↓