4月5日は、カート・コバーンの命日です。
カート・コバーンは、90年代を代表するアメリカのロックバンド「ニルヴァーナ」のボーカリスト。
ニルヴァーナはグランジ(オルタナティヴ・ロック)の中心核で、1991年の大ヒットでグランジ・ムーブメントを巻き起こしました。
しかしグランジのピークは、1994年のカート・コバーン突然の自殺で、終わりを告げます。
この記事では、
今でも音楽・ファッションと人を惹きつけるカートの生い立ちから、妻となるコートニーとの出会い、自殺にいたる経緯
をご紹介します。
カート・コバーンの誕生日と幸せな子供時代の終わり
カート・コバーンは、1967年2月20日、ワシントン州アバディーンに生まれました。
伐採を生業とする小さな町で育ったカートは、芸術と音楽が大好きでした。
絵を描くのが上手で、幼稚園ではその才能を披露しました。
また聞くことでピアノの弾き方を学び、両親が買い与えた子供用ドラムキットを叩いて過ごしました。
単に好きなだけでなく、才能のある子だったんですね!
父親の勧めで、少年らしく、リトルリーグで野球もやりました。
しかし幸せな子供時代は、カートが9歳の時に両親が離婚した時、終わりを告げました。
カートは父親と一緒に住むことになり、母と4つ下の妹キムは週末に訪問するようになりました。
アメリカの離婚家庭に多いパターンです。
父親が再婚した時、カートは義理の母ジェニーと彼女の2人の子供たちに怒りを覚えました。
そんな困難な時期、救いになったのは、叔父チャックから貰ったギターでした。
ギターを弾いている時だけは、家で安らぎを感じることができました。
カートは疎外感を感じ、父親はいつも義母の味方だと思っていました。
父親のお気に入りは彼女の子供と、1979年生まれの腹違いの弟チャドだけだ、と。
カートは10代の半ばにドラッグを始め、父親から遠ざかるようになりました。
この時、ドラッグを入手できる環境になかったら、父親とうまくいっていたら、カートの人生は大きく違っていたと思われます。
1981年、高校でドラムを叩くカート↓
1982年、カートは父親の家を出て、数カ月間、親戚の家を転々としました。
その後、母親とその恋人パット・オコナーの元へ行き、一緒に暮らしました。
(2人は後に結婚しました。)
アバディーンの高校に通い、カートは教師と学友に彼の芸術的な才能で感銘を与えました。
やはり特別な才能を持っていたのは間違いないようですね!
飲酒とドラッグの日々、遂に刑務所へ
カートの人生が変わったのは、パンク・ロックを聴いた時でした。
地元のパンクバンド「メルヴィンズ」を見つけ、グループのリーダーであるバズ・オズボーンと仲良くなりました。
オズボーンはセックス・ピストルズなど、他のパンクバンドを教えてくれました。
ドラマーのデイル・クローヴァーの家の近くのスペースで、メルヴィンズがよく練習をし、カートを含む多くのファンがこのセッションにやってきました。
カートの音楽に大きな影響を与えました。
高校進学に伴い、カートはさらに多くの飲酒やドラッグに走るようになり、母親と衝突しました。
1984〜1985年の間は、アパートの廊下や病院の待合室で寝たり、友達と過ごす時間を過ごすことが多くなりました。
そして1985年7月、カートは町のビルにスプレーでペンキを吹きつけた罪で友人と共に逮捕されました。
友人は逃げ出しましたが、カートは捕まり、警察に連れて行かれました。
後にこのことで、罰金と執行猶予を受けました。
数ヶ月後、カートは初めてのバンド、「フィーカル・マター」を始めました。
叔母のマリの家で、何曲かを録音しましたが、ギグをすることはありませんでした。
翌年、カートはまた警察のお世話になりました。
夜に飲み、廃ビルの周りをさまよっているところを発見されたのです。
その結果、数日間刑務所で過ごすこととなりました。
カートは2歳年上のベーシスト、クリス・ノヴォセリックと出会い、プレイするようになりました。
地元のドラマー、アーロン・バークハードがすぐに仲間に入りました。
彼らの最初のギグは1987年のハウスパーティーでした。
ドラッグ・飲酒で落ちそうな生活を音楽活動が救っているような感じですね。
次はいよいよ「ニルヴァーナ」の登場です。
ニルヴァーナデビュー!コートニー・ラブと出会う
1988年、カートは野望のいくつかを実現させることができました。
バンド名は遂に「ニルヴァーナ」に落ち着きました。
最初のシングル『Love Buzz』を作り、小さなインディーレーベルのサブ・ポップ*からリリースしました。
この時にはバークハードは辞めてしまい、チャド・チャニングがドラム演奏を引き継いでいました。
シアトルの音楽シーンでニルヴァーナの人気は高まっていて、1989年にはデビューアルバム『ブリーチ』をリリースしました。
それは大したヒットはしませんでしたが、カートのソングライターとしての新進気鋭の才能の兆しは、特にバラード『About a Girl』で見ることができました。
ところで、カートは、サブ・ポップから酷い扱いを受けていると不満に思っていました。
同じく契約しているサウンドガーデンやマッドハニーといったバンドのためのプロモーションの方に、会社は熱心だと感じていたのです。
うーん、こういう不満を感じるアーティストは多いようですね。
稼いでいるのは自分なんだから、自分に使えよ、って感じなのでしょうか。
バンドは苦労していましたが、カートはプライベートで運命的な繋がりを得ました。
1990年、カートが出会ったのは、コートニー・ラブという名のロック歌手でした。
2人はオレゴン州ポートランドのナイトクラブ、サテリコンでショーを行っていました。
お互いに興味を持ち、その関係はずっと後まで壊れることはありませんでした。
同じ年、ニルヴァーナは内部的な変化を経験していました。
カートとノヴォセリックがチャニングを追い出し、友人のデイル・クローヴァーをドラムにしました。
ツアーの後、最終的には、デイヴ・グロールをドラマーに迎えました。
1991年、ニルヴァーナはゲフィン・レコードと契約してメジャーデビューしました。
サブ・ポップへの不満は解消されなかったわけですね。
同年、アルバム『ネヴァーマインド』をリリース、革命を起こす大ヒットでした。
彼らのサウンドは、「グランジ」と呼ばれるようになりました。
そしてカートのファッションは、「グランジ・ファッション」と呼ばれ愛されました。
急激な成功とストレス、コートニーとの結婚、関係悪化
シングル『Smells Like Teen Spirit』は、最大ヒットのシングルとなり、アルバム全体をチャートトップへと引き上げました。
すぐに、カートはこの世代の最高のソングライターの一人と呼ばれるようになりました。
しかし急激な成功は、才能のある敏感な24歳に過度のプレッシャーを与えました。
カートは、自分の音楽がどのように受け入れられているか、不可能な未来のコントロールを取り戻す方法を心配し始めました。
そして1990代初め、ヘロイン使用に手を染めました。
1992年2月、カートはコートニー・ラブとハワイで結婚しました。
彼女は当時、ホールというバンドのリード・ボーカルで、ギタリストをしていました。
その年の8月には、娘フランシス・ビーンが誕生しました。
カートとコートニーは、しばしば一緒にドラッグを使用していました。
コートニーが妊娠中、ヘロインを服用していたと雑誌に話したため、ソーシャルサービスに調査されたことがありました。
莫大な裁判費用を払い、娘の養育権を何とか守ることができました。
カートとコートニーの関係はどんどんと悪化してきました。
1993年、シアトル警察が彼らの家にやってきました。
2人が暴力を振るう喧嘩をし、家に銃があったためで、カートは暴行で逮捕されました。
そして警察は家から銃を持ち去りました。
プライベートは混乱していましたが、音楽では成功を続けていました。
1993年9月にリリースされたアルバム『イン・ユーテロ』は、アルバムチャートのトップになりました。
ニューアルバムは絶賛を得ましたが、カートは他のバンドメンバーから距離を置くようになっていました。
しかし活動は止まることなく、ニルヴァーナと共に1993年11月ニューヨークでのMTVアンプラグドシリーズのギグをし、冬にはヨーロッパツアーへと向かいました。
カート・コバーンのドラッグとの闘い、自殺
カートとコートニーは、カートのドラッグ使用の件でよく喧嘩をしました。
ツアーの合間、カートは家族とヨーロッパで過ごしました。
1994年3月4日、イタリア、ローマのホテルで、カートは大量の薬を服用して自殺をしようとしました。
コートニーが目を覚まし、カートの状態に気づきました。
彼は昏睡状態で病院に運ばれ、一命を取り留めました。
公式の報道によると、誤って薬を摂取したと言われています。
しかしカートは明らかに自殺しようとしていました。
遺書も残していたのです。
アメリカに戻ると、カートは世捨て人のようになり、自分の時間の大部分を独りで過ごすようになりました。
コートニーは3月18日、カートが自殺しそうだと警察に電話をかけました。
警察によると、カートは銃と薬を持ってクローゼットの中に閉じ込もっていました。
自殺しようとした訳ではないとカートは言いましたが、警察は安全のため、銃と薬を預かることにしました。
ああ、もう危ういですね…。
数日後、コートニーはドラッグを止めるよう、カートを説得しました。
カートはロサンゼルスの薬物依存クリニックに入りましたが、わずか数日で脱走してしまいました。
1994年4月5日、シアトルの家の裏にあるゲストハウスで、カートは自分の命を絶ちました。
27歳でした。
ショットガンを口に咥え、発砲したのです。
カートは長い遺書を妻や幼い娘だけでなく、彼の多くのファンにも残していました。
自殺であると判決があったにも関わらず、一部の人は殺人ではないか、コートニーがカートの死に関わっているのではないかと未だに疑問に思っています。
バンドは、カートが死亡した直後にライブアルバム『MTV アンプラグド・イン・ニューヨーク』をリリースし、ナンバー1になりました。
2年後、ライブコンピレーションアルバム『フロム・ザ・マディ・バンクス・オブ・ザ・ウィッシュカー 』がリリースされると、再び大ヒットを記録し、アルバムチャートの1位に達しました。
カートがいなくなり、彼が残したものをどうすべきか?、争いが起きました。
ニルヴァーナのメンバー、グロールとノヴォセリックは、コートニーと何年も争いました。
2002年9月に、コートニーは未発表の資料についての長い争いが遂に解決したと発表しました。
同年、それまでリリースされていなかった『You Know You Right』を含む、ベストアルバム『Nirvana』がリリースされました。
2004年には『With the Lights out』、続いて2005年には『Sliver』と、未発表曲を含んだボックスアルバムがリリースされました。
まとめ
カート・コバーンの子供時代から成功、ドラッグとの闘い・自殺まで、いかがでしたでしょうか?
- カート・コバーンは子供の頃から芸術と音楽の才能があり、幸せな子供時代だった
- 両親の離婚で幸せな時は終わり、父親に引き取られ、安らぎはギターだけだった
- 10代半ばからドラッグを始めた
- 高校でパンク・ロックに出会い、人生が変わった
- 飲酒とドラッグの日々ながら音楽活動は続け、ニルヴァーナを組む仲間とも出会った
- 1988年にニルヴァーナがインディーレーベルでデビュー
- 1991年にはメジャーデビューし、アルバム『ネヴァーマインド』が大ヒット
- しかし急激な成功は過度なプレッシャーとなった
- 1992年にコートニー・ラブと結婚、娘も誕生する
- 1993年のアルバム『イン・ユーテロ』も大ヒット
- 1994年のヨーロッパツアーの合間に自殺未遂、アメリカに戻り銃を持って立てこもり
- 同年4月にショットガンで自殺
でした。
ううーん、辛いですね。
こんなに才能のある人だったのに、ドラッグに蝕まれてしまったなんて。
両親の離婚がなかったら、ドラッグに手を出すこともなく、今も音楽を続けていたのでしょうか…。
実は私、ニルヴァーナの音楽はちゃんと聴いたことがなくて、カート・コバーンが亡くなった時、コートニー・ラブの名前と一緒に初めて聞きました。
今回、この記事を書くために何曲か聴いて、生きていて欲しかったと思いました。
何度かチャンスはあったのに…銃が簡単に手に入らないようにして欲しい、でも死にたい人はどうやっても死のうとするのか…。
本当にやるせないです。
R.I.P. カート・コバーン。