アメリカ南北戦争は、奴隷制存続を主張する南部の11州が合衆国を脱退して連合国を結成。
北部23州と戦った戦争のことを言います。
アメリカでは「The Civil War」と呼ばれ、独立後の唯一の内戦と認識されています。
南北戦争と言うと『風と共に去りぬ』のイメージ?
スカーレット・オハラは美しいですが、南北戦争自体はかなり血生臭い戦いでした。
この記事では、
南北戦争の原因と結果を分かりやすくご説明します。
アメリカ南北戦争とは
まず簡単にまとめます。
- アメリカ南北戦争(American Civil War)
- いつ?:1861年から1865年
- どこで?:アメリカ南部、北西部、西部、大西洋
- 誰が?:アメリカ合衆国(西部)と、アメリカ連合国(南部)が、
- 何をした?:戦争をして、アメリカ合衆国の勝利
- どうして重要?:連合国の消滅、奴隷制廃止に繋がったから
当時、南部と北部では色々な状況が全く違っていました。
こんな感じです。
南部では黒人奴隷を大量に使って綿花を作り、安く農産物を作ることができていました。
競争力があるから、自由貿易が良かったのです。
一方、北部の主な産業は工業製品。
工業は農業と違って、景気のいい時と悪い時で人手を調整したいため、奴隷制度に反対しました。
奴隷制だと衣食住を保証しないといけなかったからです。
また工業製品は、当時、イギリスとはライバル関係にありました。
だから関税をかける保護貿易が良かったのです。
真逆で全く相容れないですね。
同じ国なのに、まるで違う国みたいです。
対立するのは致し方ないという感じです。
アメリカ南北戦争の原因
原因はズバリ!
奴隷制を廃止されるのではないか?という南部側の不安です。
きっかけは、1860年11月のエイブラハム・リンカーン大統領選挙当選でした。
リンカーンは奴隷制拡大に反対していました。
こんな大統領の下ではやってられない!と思ったのでしょう。
アメリカ合衆国からの脱退宣言をする州が続出しました。
1860年12月に脱退 | 1861年1月に脱退 |
---|---|
サウスカロライナ | ミシシッピ |
フロリダ | |
アラバマ | |
ジョージア | |
ルイジアナ | |
テキサス |
脱退した7州はアメリカ連合国を結成し、首都をアラバマ州のモンゴメリーに定め、
ジェファーソン・デイヴィスが選挙の上、大統領に就任しました。
南部は結局負けてしまった訳ですが、もし勝っていたら、この大統領がアメリカ全土を治めていたかもしれません。
ちなみに、彼は戦後、戦犯として国家反逆罪に問われましたが有罪にはならず、南部人から尊敬される偉人となったそうです^^
そして5月までに新たに4州が連合国に参加しました。
1860年12月に脱退 | 1861年1月に脱退 | 1861年5月までに脱退 |
---|---|---|
サウスカロライナ | ミシシッピ | バージニア |
フロリダ | アーカンソー | |
アラバマ | テネシー | |
ジョージア | ノースカロライナ | |
ルイジアナ | ||
テキサス |
首都はモンゴメリーからバージニア州のリッチモンドに移されました。
この11州が南部11州(奴隷州)です。
州が独立しちゃうなんて、今だと考えられないですねー?ビックリ!!
ただし、奴隷制をしていた州全てが、連合国に参加したわけではありませんでした。
5州は中立として、北部の味方に残りました。
デラウェア | ケンタッキー | メリーランド |
ミズーリ | ウェストバージニア |
これで合衆国は北部18州と中立5州を合わせた23州となりました。
メイン | ニューハンプシャー | ヴァーモント |
マサチューセッツ | ロードアイランド | コネティカット |
ニューヨーク | ニュージャージー | ペンシルヴェニア |
オハイオ | ミシガン | インディアナ |
イリノイ | ウィスコンシン | アイオワ |
ミネソタ | カンザス | オレゴン |
カリフォルニア |
さて、とうとう大量の死者を出す南北戦争の始まりです!
南北戦争の死者数はワースト1!
1861年4月12日から14日にかけて、南部が合衆国のサムター要塞を攻撃して戦争は始まりました。
最初は、連合国(南部)が優勢でした。
ロバート・エドワード・リー将軍という優秀な指揮官がいて、
- 1862年6月 七日間の戦い(死者約5000人)
- 1862年8月 第二次ブルランの戦い(死者約2800人)
- 1862年12月 フレデリックスバーグの戦い(死者約1900人)
- 1863年4月 チャンセラーズヴィルの戦い(死者約3200人)
立て続けて勝利に導きました。
彼自身は奴隷制には反対で、奥様は合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンの義理の祖孫という立場でしたが、生まれ育ったバージニア愛から南部に付いたそうです。
またイギリスやフランスが南部を支援する動きも見せていました。
しかし。
エイブラハム・リンカーンが1863年に奴隷解放宣言をしたことで、流れが変わりました。
人種差別は世間体が悪いと、イギリスやフランスが合衆国支持に回ったのです!
リンカーンの作戦勝ちでした。
奴隷解放宣言のリンカーンの狙いについて詳しく↓
優勢となった北軍は、
- 1862年2月 ドネルソン砦の戦い(死者約800人)
- 1862年4月 シャイローの戦い(死者約3500人)
- 1862年4月 ニューオーリンズの戦い(死者約0人)
- 1862年9月 アンティータムの戦い(死者約3600人)
- 1862年10月 ペリービルの戦い(死者約1400人)
- 1862年12月 ストーンズリバーの戦い(死者約3000人)
- 1863年5月 ビックスバーグの包囲戦(死者約4000人)
そして
- 1863年7月 ゲティスバーグの戦い(死者約7800人)
で大勝し、
ユリシーズ・グラント将軍が、
1865年3月にアメリカ連合国の首都リッチモンドを陥落して戦争は終結しました。
結局、南北戦争は4年で終わったわけですが、
その間の死者数は、
- 北軍:36万5千人
- 南軍:29万人
北軍の方がはるかに死者数が多いことから、南軍の激しい戦い振りが伺えますね。
5万人の市民が巻き添えで死亡し、合わせると70万5千人が死亡した計算です。
数字が大きすぎてピンときませんが、第二次世界大戦での米軍の死者数が40万ということですから、同じアメリカ人同士の戦いで、殺し合いし過ぎでしょ!!という数字でした。
まとめ
アメリカ南北戦争の原因と結果:死者数は驚きの数だった!、いかがでしたでしょうか?
- 南北戦争は、1861年から1865年に行われた合衆国と連合国の戦争
- 奴隷を使って農業中心、自由貿易を希望した南部が連合軍を結成して独立
- 北部は奴隷制に反対、工業製品を作り、保護貿易を希望していたので対立した
- 戦争のきっかけはリンカーンが大統領に選ばれたこと
- 最初は南部が優勢だったが、奴隷解放宣言を転機に北部が勝利
- 南北戦争の死者数は約70万で過去最悪
でした。
今まで南北戦争って漠然としか知らなかったのですが、こんなにも長い間、こんなにもたくさんの人が亡くなり、傷ついていたのですね。
本当に死者数には驚きました!
あと余談ですが、戦いの数の多さ…アメリカの子供達は歴史でこれを覚えるのでしょうか?
テストで出るとしたら、大変ですね。
って、日本と違って暗記式じゃなかった!